老いぼれへぼ剣士の独り言

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同朋新聞に次のような記事があった。
年老いた農夫が鍬を一振り一振りしながら「南無阿弥陀仏」と一心に念仏を唱えていた。
その農夫は、念仏で救われないことがあるかもしれないことを知りながらも、それでも念仏を唱え続けている。
その農夫は、そのようにすることが仏道にほかならず、仏につながることなのだと固く信じて
親鸞聖人の教えを守り抜いているのだという。
聖人が申されるには、このような行いを為せば救われますとか、浄土にもたらされるますよとか、世の中が幸せになりますよといった因果応報の考えには賛成できないとおつしゃられている。
だから、いくら念仏を唱えても救われない、浄土へ行かれないことがわかつたにしても、それでも念仏を唱え続けることが仏の道なのだと言われんとしているのではなかろうか。
此の事を剣道に擬えれば、如何に剣の理法の修錬に励んでも人間形成が適わないかもしれない。試合にて勝利を収めることができないかもしれない。
また昇級昇段が叶えられないかもしれない。
それでもなお、ただひたすら黙々と誠心誠意打突を繰り出す。
損得なしに、ただひたすら黙々と一心不乱に打ち込むことが物凄く大切じゃなかろうか。
 
孫の学校には剣道部はない。試合や大会に出場することは叶うことはない。
昇級も昇段もあり得ない。
それでも孫は黙々と稽古に励んでいた。
実にいじらしい。