うらなりの記《29》

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大八車を一緒に引いた鉄二はもういない。
あの時の果敢なくも無慈悲な思い出を語り合えるのは、
当時乳飲み子であった利治だけになってしまった。 
餓えきった貪欲で獰猛な眼つきで人の道を踏み外してしまった己が不憫だ。
 
311を機に何もかも吐き出してしまうことに決めたのでした。
 
 
その三  父高橋忠勝(8)…疎開(上)
 
昭和二十年の敗戦時、私は四年生であった。飢餓寸前に追いやられた混乱と頽廃の真っ只中、私の小さき貧弱な肉体は輪を掛けて心までをも荒廃させ世の荒波に翻弄され続けていた。
 軍国少年は愚か、その風上にも置けない非国民的脆弱少年に過ぎなかった。戦争そのものには一切関心なく、むしろ国家の体制を忌み嫌い逃げ回った。
 その訳は、四六時中腹を空かして醜い目付きで食い物を漁る餓鬼同然に蔑まれる存在であったからである。世をすね、ことごとく僻んだ。
七月には福井空襲、相次いで八月の富山空襲での夜空を真っ赤に焦がす光景は、誰の目からしても客観的にみて、既に日本国の敗色が色濃くいや増す中、父は家族の安泰を願って遂に疎開を決意した。
六月下旬の頃だったと記憶する。未だに明けやらぬ真っ暗闇の中、大八車と共に出立した。
父忠勝が牽引し、母としは末っ子の利治を背負い後尾を押した。
身の丈一二一・〇センチで体重が二一・二キログラム、これが小学四年の体躯とは信じ難い。それでも父の言に従い脇の牽き綱を引いた。
実に赫灼とした鉄二の体力は小学一年生とは思えない持久力で一家に貢献した。この時も私は肩身が狭かった。
祖母爲の遠縁筋に当たる二俣町の大瀬何がし宅を目指した