老いぼれへぼ教師の回想記《29》

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 昭和四〇年代の通勤手段は電車かバス、自転車かバイクでマイカー通勤は極めて稀であった。
 その当時、体育科の山本茂先生は驚くなかれ寺町のご自宅からランニングで出勤為された。
 雪道は兎も角風雨に関わりなく敢行なられた。強靭なる体力と併せて、驚異的精神力の持ち主でいられた。
 処が、先生は血液の病魔に襲われ敢え無く若き命を終えられてしまわれた。
 
 そのようなことを思い浮かべながらこの稿を掲載した。
 
 
其の三  海原に 試練乗り越え 金石中 
 
バイク通勤(上)
 
 金石に赴任した年に妻を娶った。 平和町 の平和家具店の裏手に建つ平和荘の一室がわがスウイートホームに違いはない。
 当時はまだマイカー時代の到来には程遠くバスか電車もしくは自転車、私は最先端とはいえないまでも50CCのホンダのスーパーカブ号を手に入れ意気揚々と金石まで通勤した。とはいっても金沢の端から端までの道のりである。
 いろんなことに出会ったが三つのことを思い出す。先ず一つ目は方向指示器のことだ。ウインカーライトはあるけれど体裁だけで心許ない。
 右折時のみならず左折の折にも肝を潰しそうになった想いは幾度となくあった。
 命拾いをした瞬間、女房とまだ乳飲み子であった息子の顔がちらついた。
 それで、ある日より手信号に変えることにした。
 交差点での左折より右折が怖い。二三十メートル前より手信号に入る。右の手を水平に真横へのばすか、左手を垂直に真上へ上げるかである。
 最初のうちは、遠慮がちに恐る恐る動作するがこれが返って危ない。大げさに仰々しくやった方が後続車両にも対向車両にも判りよいことに気づいた。
ある意味で一種の開き直りであろう。この事はすべからく、わが渡世術として活かされたようにも思われる。
 二つ目は、大寒のころ、当時はまだ暖冬という言葉すら聴かなかった時代のこと、よせばよいものを女房の忠告も聞かずに寺町通りの下り坂を降り、広小路交差点の手前の大きなカーブでハンドルを取られた瞬間に横転二輪車もろ共滑り落ちること数十メートル交差点にまで達した。その間、乗用車やトラックが良くぞ通過しなかったものぞ。凍結路面でみな走行を敬遠したのだろう。
 そんな悪条件の中の痛勤だった。ゴム引きの厚手の雨合羽だったので滑るはずだ。よくぞ、ガソリンが流出しなかったことか。
 三つ目は金石往還を走行中スピード違反の検問に摘発され検挙されたことだ。確か当時の制限スピードは三十キロで五キロオーバーという。
 35キロメーターののろのろ安全運転でなおかつ違反金は納得いかないと執拗に抗議したことを覚える。
 多分その年は市の教職員組合の執行委員であり度々ストライキを乱発したことから、ある意味でマークされていたと考えざるを得ない。
 マークされるほどの活動家でもなかったのに、やはりどうしても納得がいかない。今以ってである。