うらなりの記《34》

新竪町小学校の体育館の後部に肋木があった。その肋木よりはるか高くに積み上げられた干し草を今でも覚えている。
軍国少年とは程遠い存在であった。軍部の方針への反逆行為に等しかった。
顔面が吹っ飛ぶほどの鉄拳ビンタの方がよかった。体罰を受けて当然なる怠業であった。
しかし、深夜に及ぶ廊下での立てらかしはいささか陰湿に映った。
恐らく、池田先生と父忠勝との了解事項とみている。
 
後日談だが、あの乾燥ヨモギは軍部極秘のもと火薬製造上の貴重品になったのだという。
ヨモギに馬の尿とか人糞を混ぜて発酵させる内に硝石に生成されるに至ったらしい。然すれば、わたしは国賊に近い存在であった。
とにかく、わたしは踏んだり蹴ったりどうにもならないお荷物であったことになる。
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 その三  父高橋忠勝(13
 
とにかく私は、大瀬家の陣容を知らない。知ろうとはしなかった。そのはずだ。知ることは怖いことだった。
大瀬家の人たちの目を恐れた。怖くてとてもじゃないが直視は出来なかった。
終ぞ今以て、大瀬家の人たちの顔ぶれを思い出そうとしても出来っこないのである。
漸くにして、敗戦の日を迎え責め苛む地獄の苦しみから解き放たれた。
この年の夏休みは、短く感じられた。この年の夏休みの宿題は乾燥ヨモギの提出であった。
私は、九月の始業の日に干草を持参せずに登校してしまった。
すでに戦争は終わっていたにもかからわず、この学年の担任でありし池田壽子先生は女だてら男勝りの実に厳しき戦時体制下特有の律儀な方であった。
未提出の罰は廊下での立てらかしであった。廊下に立てったまま夜のとばりが下りてしまった。
午後九時を廻ったころ、父親が神妙なる面立ちで現れ、無言のまま私を池田町の家へ連れ戻した。
その時、父から折檻を受けるようなことは何故かしらなかった。
それにしても私には、惨憺たる思いの苦きひと夏の思い出であった。