老いぼれへぼ剣士の夕雲考《33》

イメージ 1
 
「貧」の字を字引で調べてみると、 『貧は世界の福の神』だという。
貧乏は、返って人を発奮させ努力させて、後の幸福をもたらすもととなるのだという。
 
また、『貧は菩提の種、冨は輪廻の絆』だという説明もある。
すなわち、貧すれば心に執着がないので悟りの境地に入りやすいが、富めば物欲にとらわれ、それが仏道に入る妨げとなって成仏できないのだと説明している。
 
これはどうも、鈴木大拙がいう『貧の極意』の達人が『貧の平和』を享受できるのだという指摘と合致致さないものだろうか。
 
 
鈴木大拙は夕雲をどのように観察し評価したか(13)
 
 
鈴木大拙は茶人でもあった。茶道への造詣は極めて深い。
茶席の禅語の中に「山鳥歌聲滑(さんちょうかせいなめらか)」がある。その一節、「・・・寥寥 ( りょうりょう )たる天地の間 独り立ちて 何をか極めんと望む・・・」を引用して「もの寂しい荒野に唯独り立ち竦み、何かを極めんとする」時には、「貧の極意」に徹して、その貧者は自分の全人格の力を出し尽くして激しく雄々しく戦い、戦い抜いてその果てに始めて極めんとした何かを手にすることが適うのだという
この極めんとしたものが「貧の平和」に外ならない。
「貧の平和」は、「貧の極意」に徹し心気諸共ぶつけ合った激闘において悪戦苦闘の末に勝ち取るものなのだと言わんとしている。
平和は決して安易安直に齎されるものではない。
況してや、富める人が物の力で求められるものでもない。