老いぼれへぼ教師の回想記《36》

 
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当時はカリスマ的指導力を発揮された極めて有能な教師を数多くお見受けすることができた。
その中でもとりわけ高田登志夫先生からは目を掛けていただいた。痛いほど恩義を感じていた。
ところが昨年、奥様よりの訃報に接した。不整脈が原因であまりも突然のことで今以って現実に向き合えないとのお気持ちをいただいた。
また、庄田時中先生から唐突にも、君の授業はユニークな存在だ、付属へ推挽してもよいぞと、冗談交じりに お声がかかった時には本当に魂消た事を思い出す。
いろんなことを思い出す一時であった。
 
その三 海原に試練乗り越え金石中
 
職員バレーとソフト(前)
 
 三十代で血気盛んのころ、市教祖主催の春はバレーボール、秋にはソフトボール大会が、そして冬の卓球大会が恒例となっていた。
 当時は通常テスト前一週間は午後放課であった。老いも若きも皆よく練習に汗を流した。庄田時中先生や高田登志夫先生らの顔が浮かぶ。監督兼コーチとして率先して発破を掛けていられた。若きは付いていかざるを得ない。
 バレーボールの柳瀬明先生、ソフトボールの寺西志朗先生はKTCチームの看板選手でもあり、まさに双璧であった。
 私はバレーAチームのアタッカーとしては見劣りがしたのでBチームへ回らざるを得なかった。当時は野田中のグランドで一斉に挙行された。砂塵舞う中での熱戦で、日頃職員室ではしかめっ面をして寄り付き難い感じの超ヴェテランの諸先生方もこのときばかりは皆童心に返りはしゃいだ。
 九人制バレーのレシーバーの要の位置に必ずといってよいほどに数学の鍋島先生がつかれた。華麗さはないが堅実な守備範囲の広い捕球振りには頭が下がった。ボールはセッターの堀内先生の手中から離れ私の頭上へメジャーで測ったかのような正確さでトスされた。満身の力でアタックした。小気味が好いほどに相手コートに炸裂した。
 前衛のライトを守る長身の菊田先生へもボールが上がった。ノーブロックのまま、これまた得点を重ねた。頭脳的プレーであった。その年はBチームは優勝、Aチームは準優勝だった。