うらなりの記《43》

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勤務中のある時期、某中学校で某校長が校長室の密室の中で万引き常習の生徒をズックの底で蹴り飛ばし本格的折檻に及んだ光景を目撃したことがある。
勿論そこには複数の教師がいたし、何よりもその生徒の御両親が同席されていた。
非常に稀有なことであったが、実に見上げた大校長で在られた。
この種の慢性病に侵された者には単なる説諭は空念仏に終わるは必至、ある程度の愛の鞭が厳しく飛ばされねばなるまい。
指導する者の本気度が試されるのである。
当該生徒が真に更生したかは定かではないが、往時には斯様なる指導がまだ存在した。
今日万引きが蔓延し憂慮せざるを得ない状況下にあるが、日本国が沈没する前に何かを為さねばなるまい。
野田さんだけに任してはいけない。
橋下さんや石原さんでは少々あぶなっかしい。
学校現場に武道が正課となったらしいが、あんなものは屁の河童ではなかろうか。
いったい何を教えようというのか、まったく不可解だ。
山岡鉄舟バリの傑出した人物が今こそ必要ではないか。
 

その三 父高橋忠勝(22)
 
 
万引き(下)=その3
 
 
いや、正に沈没の兆候が表面化し刻一刻と悪化の道を辿ってはいまいか。
これは全て、戦後の民主化教育の失態に違いない。
人権たるもの、そもそも時の為政者・権力者の横暴から身を守る砦としての基本的人権の尊重であるにもかからわず、何もかも須らく人権の美名の下で家庭内の親の教育権も学校内の教師の教育権までもが著しき制約下に置かれてしまった。
何も安易に暴力を肯定するのではない。幼子を矯正し、まともな日本人・まともな人間として育て上げる為には、最後の最後の手段として愛の鞭を施し身体で教え込まねばならぬこともあろう。良き意味での体罰はやはり必要なのだ。
我が家の悪しき家風の一つかも知れぬが、私も私がわが父に為された通りのことをわが息子たちにそれ以上の厳しき折檻を加えたのも偽らざる事実なのだ。
もっとも、その元凶は言わずと知れた育てし親そのものなのだ。親が至らぬことを棚に上げて、かくなる挙に出るは吾が身を欺くことに相違ない。
恥ずべきことなのだ。