老いぼれへぼ剣士の夕雲考《51》

イメージ 1
 
 
加賀藩の十一代藩主、前田 ( はる ) ( なが )が寛政4年(1792年)に藩校を建てた。
明倫堂という文学校と経武館という武学校が現在の兼六公園の梅園辺りにあったのだという。
江戸幕府では老中松平定信による寛政の改革の最中、「寛政異学の禁」のお触れで、もっぱら朱子学が重んぜられたが、此処明倫堂では儒学の他に和学、医学、算術、筆術、天文学といろいろな学問に勤しんだ。
また、経武館では剣術はもとより弓馬の道、柔術、槍術等武芸十八般を錬磨した。
その剣術各流派の中に異彩を放つ神信影流があつた。
神之信影流師範であった山森俊勝は加賀藩士の子弟に夕雲流無住心剣とりわけ「相抜け」の極意を伝授していたであろうことを想像するだけで胸がときめくではありませんか。
 
 
『夕雲流剣術書』ーはじめに(6)
 
針谷夕雲のこと=その6 
 
この高田能種の弟子に山森俊勝(喜兵衛)がいて、この人物は加賀藩経武館で「神信影流」を流布させたのだという。
つまり、針谷夕雲の剣風を引き継いだ末裔が我が加賀藩にまで及んでいる事実はまさに驚愕に値する。
 
ただ高田能種のこと、とりわけ経武館にて師範役を相務めた山森俊勝については何らつまびらかにはできなかった。
極めて口惜しい限りだ。折を見てライフワークとして続行しなければならない。