うらなりの記《52》

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 従姉妹の美樹ちゃんが古びた仏壇の隅っこの奥まった箇所で見付けてくれた津田家過去帳によりすべてが氷解した。
 県の姓氏歴史人物辞典には一幽とあったが此処では一友となっている。
 五代将軍綱吉の治世で、元禄期に入る手前の貞享4年に津田一友は妙典寺にて葬られている。
 七代津田清三郎近猷、そして八代津田近吾とあることをこの目で現認した。
 ただ、清三郎近猷は妙典寺ではなく野田山に葬られたのはどうしてであろう。
 確かに不自然さがあって、其処のところを今少し深掘りしたら面白いだろうと思ったのだが・・・
 
その四 母とし(7)
 
津田家の人たち=その7
 
 
 一度、脱稿したものを津田家の御当主津田美樹氏に目通し願った数日後に図らずも意外な朗報を得たのである。
 津田家の厨子の開かずの扉を恐る恐る覗くと斯くなるものを発見したのだと一冊の古惚けた過去帳を届けて呉れたのである。
 当方の推察が見事に的中し期待した通りの結果を得た訳で、その過去帳の制作年が天保一四年(一八四三年)なら間違いなく津田清三郎近猷が作ったものだと断言できるのである。
 津田家の始祖一幽を一友と表し、実名行年不相知とある。貞享四年に寺町妙典寺にて葬られている。 津田家が由緒ある武家の家柄だということを篤と再認識した次第なのだ。