うらなりの記《57》

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 三枝叔母の御主人幸一氏とは、生前の面識はない。
 戦前戦後における肺結核はまさに不治の病で、子規の「病床六尺」を彷彿とさせ実に重苦しい。
 叔母は、地団駄を踏んでストレプトマイシンの投与に至らなかった非力さと不甲斐なさを悔やんだ。
 没落士族の村本家には何もなかった。
 ストマイは、庶民には高嶺の花であった。売却する田畑も家屋敷すらなかった。
 
 
その五 母とし(12)
  
村本家の人たち=その1
 
 
 母の実妹津田三枝がいた。大正十年生まれなので母としとは十三歳の年違いになる。
三枝叔母が味噌蔵小学校六年生に在籍の折、母としが新米教師として勤務しており授業を受け持たれたことを思い出として語っていた。
三枝は実母津田重の実家村本家の家督を相続した。
此の村本家に婿入りした夫幸一氏とのスイートホームは長くは続かなかった。
結核を患い、若くして死別してしまった。