終戦直後の平均的持ち家率は50パーセント程度であったのだという。
我が高橋家は、わたしの知る限り蛤坂、池田町、泉寺町、桜畠とずーと借家住いであった。
借家というより借間住まいであった。
その六 高橋家の相続(2)
昭和二十年代後半の頃の我が家は泉寺での借家生活であった。
鍛冶さんという飴玉屋の二階の二間から抜け出して、京都での下宿生活と初任の地へ通ったおよそ七年間というものははまったく実家を顧みることもなく家出人同然の体たらくであった。
その間、居宅は桜畠町へと移ったが借家住まいには変わりがなかった。
そして、この高橋家を取り巻く諸々の変 化の中で有為転変の劇的変遷を見てゆく こととなる。