老いぼれ教師の回想記《105》

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掲示の記念式典時における例示ではないのだが通常の全校集会においてである。
卑近な例として校長訓話の最中ですら私語が絶えないにもかかわらず何ら諭しの言葉すらない。
彼らには公然と許容された特権と受け取り、それが日常化していても対応がないに等しい空しき年月が余りにも長すぎたのだ。
一日の授業を犠牲にしてでも人としてもマナーを説諭すべきではなかったか。
次の日も、そのまた次の日もである。
知識の注入より大切な人間としての生き様を注入すべきではなかったのか。
 
また、一人の生徒の救済のために全教職員が叡智を寄せ合い深夜までの会議が続けられた例は私は知らない。
入学を受け入れた以上は只の一人たりとも退学者を出さしめない河商方式を編み出す労苦を放棄してしまった失策はこれほど痛いことはない。
民間活力のノウハウを爪の垢ほどでも心得ていれば斯くも甚大なる取り返しの聞かぬ被害を被ることもなかったろうに、正に遅きに失したのである。
誰が悪い彼が悪いといっても始まらない。
しかし、なんと言っても上に立つ人たちの高邁なる教育観と云おうか、果敢なる英断と決断力こそ必要ではなかったのか。
沿革史を色鮮やかに彩るお歴歴の面々は如何様な想いでこの冊子に目を凝らしていられるものか知る由もない。