老いぼれの独り言

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また年若き学生さんが死を選んだ。
死のダイビングと云う最悪の結末であった。
学校への放火でもなければ対教師暴力でもない。
益してや弱者へのいじめ行為でもない。
白昼に堂々と、衆目の前での決死の行為を決意した。
それも己の学び舎のわが教室から、敢えての決行に及んだ。
文部行政という教育制度そのものへの公憤に起因するのか、それとも学校の教育方針に関わる私憤に原因を見出すのか知りようがない。
でも、少なくても新聞によれば当該生徒さんは自分のノートに走り書きを残したのだという。
そこには、何と驚くなかれ“赤点しか取り得ぬ己の存在を否定し去れば、その分わがクラスの平均点が何がしかUPするだろう”という自棄的メモを書き残したのだという。
一体これは何を意味することなのか。
 
今政局が動き始めんとしている。そして、新自由主義理論が復活せむと世の中が胎動し始めている。
競争原理が教育の現場に再来せんと云う兆しを逸早くキャッチした教師が居ても全然おかしくはない。
良かれと思い、叱咤激励の意味合いで生徒に発破を掛けた。
平均点UP作戦を滔々と説諭してもおかしくはない。
進学校なら尚のこと当然な成り行きであろう。
競争力UPは生徒に還元することとして躊躇いなく日々繰り返された事と推測する。
それが裏目に出た。
最悪の事態に至った。
人間の評価は点数だけではない。
そんなもので計られてたまった物じゃない。
彼はそんなことを云いたかったに違いない。
敢えて、わが命を犠牲にして世に訴えた。
敢えて、自分を育んでくれた愛する教室を死に場所に選んで訴えた。
明るくて社交的なムードメーカーたる人物が此の日本国から失せたことは痛い。
不憫だ。
実にいじらしくやるせない。
国家の損失だ。
政治家たちよしっかりしてほしい、況してや教師たちよもうそろそろ目覚めなくていけないと思う。
 「学力テスト」も「学校選択制」にしても、一つボタンのかけ違いをすれば空恐ろしい事になりかねまい。
 
ノーベル賞は得点力ではなく創造力を競い合った結果ではなかったでしょうか。