ルーツを辿るーつ編≪2≫

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     音五郎は実は津田清三郎の弟の文字が見える(玄蕃家諸士系譜)
 
 
2 確信を得る
 
1月中旬の頃、此の舟田氏よりビックな新情報を入手した旨、電話で以って報告を受けた。
 わが母方の津田家が明らかに津田玄蕃家と連繋しているのだという。
 故光枝叔母の語種は決して只事ではなかったことになる。
 つまり、人持組津田玄蕃家第十代当主たる津田修理正直は娘婿に津田清三郎近猷の弟筋に当る津田音五郎を養子として迎え、此の音五郎が夭逝した修理正直の家督たる知行一万石を相続するに至ったわけだ。
音五郎は津田内蔵助正行に改名し津田玄蕃家十一代目当主に就任した。
時は弘化二年(1845年)であって内蔵助正行が死去する文久元年(1861年)まで十六年という長期間にわたり藩主前田斎泰公の下で家老職を勤め上げた。
その間、弘化四年(1847年)には孝明天皇即位式に藩主斎泰の名代として列席している。
嘉永5年(1852年)には8月13日付で定火消役に任ぜられた。
なお嘉永5年4月12日に加賀藩領内であった福光の新町から大火を出したが内蔵助正行の任期中ではなかった。
また、安政六年(1859年)十月二十二日には富山藩十二代目藩主前田利同 ( としあつ )が幼少だったので藩政監督の為富山へ赴き二か年にわたり大いに貢献したのだという。
これは、加賀藩史料幕末編上巻1086ページに詳述されるところである。
以上の事柄を再確認するべく玉川図書館近世史料館にて津田玄蕃家12代当主斯波蕃作成の由緒書きを閲覧し裏付けを取った。
 
今日の朝刊にて、前田家当主の寄せ書き記事に斎泰・利同の文字があることに気付いた。