津田家のルーツを辿る≪5≫

イメージ 1
 
5 人持組津田玄蕃家の相続問題
 
内蔵助正行の死に伴い津田玄蕃家当主は内蔵助の養子斯波玄蕃が十二代目として継承した。
玉川図書館の近世史料室が所蔵し保管する玄蕃家の由緒書きは、唯一此の斯波玄蕃(斯波 (しげり )明治三年に作成した物だけが残されている
克明に一部始終コピーし、わたしが保管するところである。
繰り返すことになるが、前項で述べた通り最後の十二代当主に当たる斯波玄蕃の実父は人持組津田玄蕃家の第9代当主の津田乙三郎正矩になる。
正矩にとっては、正室が懐妊中に己が死去してしまった関係で十代と十一代二代にわたる養嗣子で以って繫ぎ合わせねばならぬお家の事情があったことになろう。
つまり、十代正直が養子となり家督を継いだが三十七歳で夭逝したので、再度十一代正行が急遽養子となり玄蕃家を相続するに至った。
その間の経緯は、先代正直が一たび養女に出した津田徳方孫女なるお方(正直の娘)の下に津田清三郎近猷の弟津田音五郎なるものが婿養子として入籍させたことになる。
音五郎が婿養子として推挙されるに足る確たる業績などは詮索する術はどこにもない。
しかし、それ相応の才覚の持ち主であったであろうことは疑いもないことだ。
そして、此の音五郎こと津田内蔵助正行は先先代の正矩死後に生誕した嫡子正邦を養嗣子として世継ぎの正当性を保持したことになる。
津田正邦は明治の治世を迎えたのを機に、先祖所縁の斯波の姓を名乗り斯波玄蕃または斯波 (しげり )と改名した。
南北朝時代の武将斯波高経を祖とし足利尊氏とは一族同門の間柄、高経は南朝新田義貞を討つなり、尊氏亡き後一時であるが室町幕府に高経政権を樹立した逸物に他ならない。
後には三管領の揺るぎない地位を得た、その斯波の姓に他ならない。
 
明治3年に津田正邦こと斯波蕃によって作られた津田玄蕃家の由緒書は明白に政本―正矩―正直―正行―正邦の家系の正当性を立証している。
処が、著名な郷土史家で在られる日置謙氏が著わされる「加能郷土語彙」改訂増補復刻版(北国新聞社発行)には政本―正矩―正直―正邦のラインを主張され11代正行を欠落させている。
故意ならば猶の事、その根拠をば問い質そうにもその術はない。