老いぼれの独り言

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OUGIDAI
FESTIVAL
2013
 校内は所狭しと子どもたちと付き添った大人たちで溢れ返っている。
 お昼前だが人だかりの食べ物販売コーナーと満席の食堂からはさすが食欲の秋を実感させる。
各種ゲームコーナーの他にもエコバック作り、くじ引きなどの催し物会場を渡り歩いている内にとある教室に吸い込まれた。
体育館と各学年の教室が会場として当てがわれていたのだが此の3学年のとある一クラスだけに特異な雰囲気と云おうか一種の佇まいを感じ取った次第なのだ。
何処の教室にも校訓とか学年目標や級訓のようなお題目は掲げられてはいる。
ところが此の教室の級訓はえらく特大でありしかもカラフルなのだ。
黒板の真上にでかでかと掲げられている。
 
授業には集中しよう
友達を大事にしよう
何事にも一生懸命に
 
取り立てて注目するほど価値ある言葉だとは思わぬがこの当たり前すぎる事柄が蔑にされ歯車が狂ってしまっている日本国の教育の現況からすれば如何にも時宜を得た名言だと言わざるを得ない。
 
わたしは知らなかった。
「チクチク言葉」と云う言葉が存在すること自体知らなかった。
チクリチクリと他人のこころに突き刺さり抜き去ることすら違わずに其の毒気が全心身を麻痺させるがごとき悪魔の『言葉』。
いじめの元凶たる「チクチク言葉」をわがクラスから追放し駆逐せんことを宣告している。
こころを大切する教師像がそれとなく思い浮かぶ。
いじめ行為はこのような低学年にまで浸潤してしまったのか。
わたしは知らなかった。
「チクチク言葉」全滅作戦は全校一丸となって取り組んで然るべしと察したが高学年のクラスにはどうしたことか見受けることはなかった。
もっとも各教室には施錠が為され窺い知ることが敵わなかったのも事実だ。
厳格な施錠一つとっても時代の移り変わりを痛感した次第です。
個人情報が散逸し漏洩する事に怯え苦肉の策として厳重施錠分からぬでもないが「ひとを見たら泥棒と思え」では子どもは育つはずがないのではなかろうか。
わたしが教室のドアに手を遣る仕種を見た子どもたちは何とも遣り切れない冷たい白い眼付でこちらへ視線を凝らすではないか。
もっとも「李下に冠を正さず」の言葉通り無人の教室へ入ろうとする嫌疑を抱かせるような行為を軽率に為したわたしがよくなかったのかも知れない。
 
本来、子どもはすっからかんで天真爛漫であって屈託なきものであるはずなのだと今でもわたしは確信する。