老いぼれの独り言

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血縁こそないが遙かに遠き縁者にもなろう土肥一族に哀悼の意を表しつつ末森山をあとにした。
国道158号線を南下し外環に連結する寸前の信号待ちで、ふと何の気なしに西田記念館のことに気持ちが居付いてしまった。
 何故かしら不思議でならないのです。
むかしからわたしは西田幾多郎と聞いただけで怖気付くのです。
所詮はあきらめなのです。
傍にも寄り付けない。
怖ろしく頭のいい秀才には近寄り難い威圧感を感じて此の齢に至るまで此処西田記念館を敬遠し続けてきたのです。
思い返せば学生時代に意気込み勇んで岩波文庫善の研究」を定価六拾圓で買い求めていた。
ところが初っ端の出だしの第壱行目から頭の中が凝結ししかも氷固まってしまったようなのです。
 
“經驗するといふのは事實其儘に知るの意である。
全く自己の細工を棄てて、事實に從うて知るのである。・・・“
 
動きが取れないのです。
前へ進め切れないのです。
情けない、哀れだ。
おのれに幻滅したまま今に至ってしまったのです。
信号を左折し宇ノ気の街中を捜し回るのだがやはり見つからない。
業を煮やして其処らの民家の庭先に居たお人に道案内を乞うた。
親切なお方で身振り手振りを入れて説明されるのだが要領を得ない。
すると、そのお方も業を煮やしたかのようにいきなりわたしの車に乗り込んできて直々案内するという。
此の親切無比なお方のお蔭で宇ノ気の町への先入観が随分とやわらいだのでした。
名前とは似つかないとても現代風な奇抜な建物にもびっくりした。
しかもコンクリートの塊で木質部がどこにも見当たらないのに拘わらずにどことなく温かみを感じたのでした。
西田幾多郎と云う高邁な日本人、精神人を理解するには遠く及びはしなかったがそれとなく人間幾多郎の温もりのようなものをほんの少しだけだが味わい得たことはよかった。