20万個の白熱灯の内4万個のLED球が今年は灯ったらしい
肩の荷が下りました。
何とか一段落したのを見届けたので家内と「神戸のルミナリエ」へ行ってみた。
聞き馴れない横文字で何事かと思ったが何のことはない単なるイルミネーションに過ぎない事を知った。
発案者のイタリア人に因んでイタリア語で「電飾」の意味を表わすらしい。
犠牲者を追悼し復興を願う初冬に於ける神戸のシンボル的イベントなのだという。
それ以来毎年回を重ね、今年は6時点灯と聞いて5時過ぎに現地に赴いたがもう既に群衆に被い尽くされていた。
車道一杯に人また人が犇めき合っている。
人の流れが澱んで立ち竦んだまま三十分以上経て定刻前ではあったが徐々に動き始めた。
警備の為に派遣された夥しい数の警官が夫々ハンドマイクの音量いっぱいにて押すなと叫ぶ、追い抜くなと激しく喚き、警告を発し捲くる。
四方八方から荘厳なミサ曲が鳴り響き耳には届くがマイクの騒音に消されて気持ちが落ち着かない。
追悼の意志も復興を祈念する情意も騒然とした周りの雰囲気に呑み込まれ掻き消されてしまっていた。
厳粛さの中に粛々と執り行われるはずの催しに各地よりバスツアーを仕立てて物見遊山の感覚で馳せ参ずる大勢の方々も居られることでしよう。
この物物しい警戒は明石歩道橋の二の舞を意識したものだと気付いた。
併せて、引例としては極めて不謹慎で恐縮なのだが、あの真夏の「芝政ワールド」を連想してしまった。
川のようなプール内で人工波を迎え撃つ決してお子様方とは無縁な無数の方々が嬉々たる歓声を上げながら押し合いへし合いながら流されゆくあの情景と重なり合ってしまった。
些かわたしは幻滅を感じた。
家内も同感だと云った。
神戸への敬虔なる祈りの場は帰りの阪神電車の中で済ませることにした。
そして、八十近いものが來る場所ではない事を知った。
とは言え、これが「見納め」に違いないと想うと少しばかり寂しくなった。