老いぼれの独り言

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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しがない此のわたしの体にまつわりつく“時代の蔓”をどんどん引き寄せながら手繰って行けば“古い背広の思い出”の延長線上にすでに親父となってしまった此のわたしの姿が二重写しとなって現われてきたのです。
親父がそうであったのと違わずわたしにも奇しくも三人の息子たちがあてがわれた。
しかし、此のわたしは彼らに背広はもとより背広に代わる何物をも与えてはいないではないか。
もう一度背広に代わる何物かを彼らに与えてはいないか思い返すが此の愚かなるわたしは何も与えてはいないのだ。
確かに彼ら三人には勿体ないくらいの生涯の素晴らしき伴侶を得て子も授かっただろう。
しかし、その事以外で彼らの半生には正に小躍りし跳び上がるほどの爆発的歓喜を体験する事はなかったような気がしてならない。
彼らには胸躍る本当の歓喜を味わう機会が訪れることがなかった。
その理由を正せば、考えて見るに諺に『親の背をみて子は育つ』とはよく言ったものだと感心するばかりなのです。
夜な夜な酒浸しの親父の後ろ姿を見て子が育つはずがない。
不甲斐ない罪深き父親だった。
親と子が其の歓喜を共有する決定的場面がなかった、その元凶は外でもない此のわたしの愚かなる個人的資質にあったのだ。
此のわたしは、わたしの古い背広を引っ張り出して此のわたしの償い切れない過去を懺悔し息子と女房に詫びを入れたかったのでしょう。
しかし、この先しばしの人生がある。
必ずや共有できる何かがあるはずだ。