老いのひとこと

イメージ 1
 
 
月に一度の大先生による講義の日です。
本日も先輩諸氏の作品を前に一つ一つ講評が展開されてゆく。
淀むことろなく淡々としかも要だけは辛辣なジョークを交えた言葉で〆られるのです。
作者との対話の中で此の作風の由って来る根拠を聞き出す。
例えば、白地の茶碗に黒い釉薬が一しずく滴り落ちた点描の根拠を問い質し自らも納得しながら解説を交えた品評で以って講義は進められてゆくのです。
此の大先生は大机一杯に並べられた生徒たちの作品に囲まれてその作者との活きた問答の中から陶芸上の秘策のエキスを抽出しそれを貪欲に摂取しているようにわたしには見えてならなかった。
斯くして、此の大先生の旺盛な活力源が注入され確保されていることが何もわからない此のわたしにも少しわかった。
今日の講義で大先生は魯山人の生き様を引き合いに黒板に“坐”の一文字を書かれたがそのままお話しだけが前へ進められました。
不審に思い家でネット検索すれば梶川芳友氏が語る魯山人評『坐辺師友』に出くわしました。
魯山人は自分の身の回りの生活空間に存在する一切の『モノ』が自分の眼力鍛錬のための師であり友なのだという。
先人(自分以外の他人)の工夫したモノとか先人のこころを必死に学ぶことこそが自分の芸術修行だと魯山人は常日頃口にしたのだという。
まさに、今日の大先生は魯山人とまったく同じことを実地に移されたことになりはしないだろうか。
先生は弟子でもある生徒との問答の場が真剣勝負の場でありおのれの芸術修行の場でもあることを身を呈して吾らに示されたのです。
吉川英治も同じように『われ以外みなわが師』と申したはずです。
でも、今日の大先生の大勝負の中で唯一合点行きかねる場面がありました。
むかしの剣客は敵を斬り伏せたならば其の目線はおのれの剣尖に注がれと言われるが飽くまでも敵方の絶命を見届けるまでおのれの眼は相方の眼に釘付けと相成りましょう。
残心なくして大勝負は成り立ちはしないということです。