老いのひとこと

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高1の孫娘が剣道の級審査で1級に合格を果たした。
 立ち会うようすを見届けていたがはらはらどきどきの連続で随分と気を揉まされました。
 とにかく矢継ぎ早やに抜き胴を繰り出すのでこりゃもうどうにもならんとやきもきしながら観戦したものです。
 でも何とか出端面も何本か入っていたので辛うじて救っていただいたのかも知れません。
 何としても昇級を果たしたい強い信念と意欲とが打突の折りにはありありと示されたことは良かったと思う。
 孫に致せば劣悪な条件下であるにもかかわらずよくぞ頑張ったと賛辞を贈らねばならない。
 次なる昇段に向けて此の信念と意欲とをずっと持続させてほしいものだ。
 当日の観覧席は親御さん達でほぼ満席状態ではあったのだがやはり往時の少年剣道の全盛期に比べれば少し寂しい気がしてならなかった。
 嘗てのあの頃の剣道ブームは何処へいってしまったのでしょうか。
 打った、当たった、はい勝ちました“勝負あり”ではなく如何に美しい勝ち方堂々たる負け方を厳しく追及致さねば明日の日本剣道はないのではなかろうかとわたしはつくづく思うのです。
 
 昨日は、武道館の駐車場がえらく混んでいた。
 第2駐車場もハローワークの敷地内も城北図書館も隣接するNTT西日本の空き地も車で一杯これ異常と云うしかない。
 ようやくにして鳴中の駐車場に潜りこむことが適うという有り様でした。
 どうもその原因は剣道の級審査と同時に開催された相撲大会にあったのです。
 あたかも、遠藤関が土俵に上がるかのようなフイバー振りなのです。
 凄まじいばかりの相撲人気には圧倒され只々驚くばかりではありませんか。
 お株を奪われたようで剣道人には唖然とする光景だったのです。
 その意味からも本来の武士道精神に根付いた美しい剣道を再構築いたさねばなりますまい。
 剣の理法を修錬するだけに留まらず如何にして剣道人をすべからく人間形成の道に結び付けるかに掛かっていると烏滸がましくもそう思うのです。