老いのひとこと

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豊真将関が引退し年寄「立田川」を襲名することになったらしい。
 角界にあって異例とも思しき礼節を尊ぶあの関取のあの最敬礼姿を最早目に致すことが敵わなくなりました。
 二度と再びお目にかかれないと思えば確かに寂しい限りです。
 関取は一体何ゆえ、見方によっては慇懃無礼とも捉えられても仕方がないような仰々しき一礼を為したのでしょうか。
 
 一時の不評を払拭し今や相撲人気は大いに沸騰しその醍醐味が甦りました。
 死力を盡して闘う姿が性能アップしたカメラレンズのお蔭で手に取るように映し出されます。
 力士の本気度の迫力がまざまざと伝わるのです。
 
 恐らくいにしえの昔、記紀の言い伝えによれば
大和の国の強力當麻蹶速(たいまのけはや)と出雲の国の怪力野見宿禰(のみのすくね)が垂仁天皇立合いの御前仕合にて捔力の死闘が繰り広げられたのがお相撲の起源らしいのです。
その勝負は、無惨にも當麻蹶速が絶命し果てたのだという。
 言うならば、命を賭しての無制限一本勝負であったのでしょう。
 その証を留めるのがお相撲さんたちによる格式高い伝統的挙動「手刀を切り」「塵を切る」しぐさであり捔力が命を懸けた真剣勝負であったことを裏付ける何物でもない。
 それ故に、豊真将関は礼儀の限りを尽くされたのでしょう。
 命の遣り取り息の根の止め合いを為すに当たり無礼は許されるはずもない。
 いま対戦した相方関取に対し、ある意味では豊真将関は深々と敬礼を示し今生の別れの意を表していられたのでしょうか。
 死力を盡して誠心誠意戦いました。
 ごっつおさんでした、ありがとうございましたと声には出さねど恐らく腹の中では大声を発していられたに違いはない。
 古武士然とした風貌のみならず正体までもまさに古武士同然で居られた。
 肋骨が圧し折れ腰骨砕け内の蔵が露出するまでには至らなかったにしても叩かれた体を踏ん張って(こら)えた折に横綱日馬富士関が覆い被さり膝の骨を粉砕するに至ったのだという。
それが元で豊真将関は敢え無く選手生命を終えられてしまったのだという。
相撲界への並々ならぬ愛着とその潔さには身につまされる思いなのです。
 
 この後、子飼いの愛弟子の中から立田川親方以上の清々しき清涼剤を撒き散らす初々しい関取が誕生することを一日千秋の思いで待つ事に致します。