無断掲載
成人の日には鶴来の弓道場で相も変らぬ巻藁前に立っていた。
一歩たりとも前進したような形跡も無く些か不甲斐なくも存ずる次第です。
祝日なので高校生諸君たちの部活動の場と鉢合わせになったのだが体よくお断わり申して片隅の巻藁を使わせて頂くことといたした。
顧問の先生とコーチャー思しきお方が引率指導なされていた。
弦音と的の的中音が静寂の中小気味よく鳴り響く。
降りしきる雪の中獅子吼颪が吹き荒んでいる。
わたしは的場を背に立て掛けた姿見の前でもっぱら巻藁を相手にしていた。
みなさん方は矢取りの為に的山へ出向く折には否応なしにわたしの立て掛けた姿見の前を通り過ぎねばならない。
幾人かの射手の方々がいたのだがみなさん夫々一様ではないことに気付いた。
それは射法には非ずしてわたしと姿見の間を通り過ぎるその仕種のことなのです。
何もなかったかのように平然と通り過ぎる人、遠慮がちに軽く一礼をほどこして通り過ぎる人、そしてとあるお一人の御方はやはりわたしの前を横切るのを避けて姿見鏡の後方を通って行かれたのです。
人を評する分際ではない、弓の修行は未だ劣悪なる最低の部位にあろう。
でも、それだからこそ猶の事云えることなのかもしれない。
優者が劣者を見る目を劣者が優者を観の目で観ることが適うたのです。
辛辣ながらもわたしの目には三様の人間としての在り様を確と捉えさせていただいた事に相成るのです。
相手をおもんぱかる配慮と相手の心中を察する真実の礼法を弁えた真実の射手が此処鶴来の道場にもいらっしゃることを知った。
的を上手に射抜く以前の人間道の大切さを教えて頂いた貴重な体験を得た一日でした。