老いのひとこと

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第4水曜日は大先生による講義の日である。


 講義であると同時に各々方の作品の講評会でもある。


 各々方はみな等しく先生のお目に叶うようにそれぞれ工夫を凝らして懸命に制作に当たられる。


 大変結構なことだしこれこそが所謂切磋琢磨に他ならず先生も其処のところはちゃんと心得ていらっしゃるようだ。


 


 それでも先生のお目に叶うことなくその日の題材として取り上げられない時は些かがっかりしおのれの能力のなさにしょげ返ったりもする。


 如何に齢を重ねていても此の心情の微妙な動きは子どもの頃と何ら変わりはない。


 今日も駄目なのかと諦めたころ此の水盤ような器は何に使うのかと問われた。


 我に返ったわたしは即座に自作の壺とか花瓶の受け皿だと答えた。


 加えて、出来の悪い半人前の作品が二つ合わせて漸く一人前になりますというと成程その通りと云わんばかりに頷いて居られた。


 と同時に先生は此の受け皿にある「無」の一文字は何を意味するのか。何故「無」でなければならぬのかと質されたのだがわたしは口をもぐもぐさせるだけで何も答えられなかった。


 今、考えて見るにやはり「無心」で制作に当たること、「有心」であればおのずとよこしまな「邪心」にも繋がりかねない。


 


 そういう芸道はいくら半人前であったにしろわたし自身の生き様と相容れないことになろう。


 無の境地で一途に粘土を捏ねるその事にすべてが集約されるです。


 


 むずかしいことだが粘土を捏ねて果たして一体何の意味があるのだろうか、作る喜びとは一体何なのだろうか・・・