車が度重く行き交う国道沿いの狭き歩道を歩めばやがて開けた空間に建長寺があった。
同じ臨済宗のお寺ではあるが鎌倉幕府第8代執権北条時宗が建てた円覚寺は円覚寺派大本山で在ったのに対し此処建長寺は時宗の実父第5代執権であった北条時頼が宋の高僧蘭渓道隆( らんけいどうりゅう)に開かせた建長寺派大本山に当たるお寺なのだという。
偶々、何処かの中学生が参禅中の場面に遭遇したのです。
一学年100名程の中規模な女学校のようだった。
僧侶の説話に実に整然と聞き入る様子からなんとなく校風を窺い知った。
半跏趺座の子もいたが大半は立派な結跏趺坐を保っていた。
引率する年配の管理職の先生だけは椅子に座られていた。
臨済宗の流儀は壁を背にするらしく彼女たちの一部は友達を前にして坐っていたが座禅は人と向き合うのではなく自分自身と向き合うのだと
お坊さんはとてもいい話を為さっていた。
おのれと向き合いおのれを深く見つめおのれの至らなさに気付く事も大事なのだと諭される。
この様な静寂さの中に身を置く機会は日常生活では絶対に在り得ない。
願ってもない機会を得て彼女たちは幸せ者である。
親御さんたちはわが子の斯くもシャキッとした凛々しき姿を見れば恐らく驚きの目を見張ることだろう。
彼女たちは間違いなく坐禅の中に心頭しきっている。
無の境地にさまよっているようだ。
まさに「赤子のこころ」に為り切っているようにさえ思える。
願ってもない貴重な体験でしょう。
お坊さんは静かに口を開く、足に痛みを感じるのは君たちに足があるからだ。
親から頂いた五体満足なからだに今改まって感謝致さねばなりませんねと話されるのです。
警策(けいさく)の場面まで留まる事が適わなかったのだが恐らく此の話されるお坊さんならば手心を加えることなく本物の“ハシッ“を連発されるだろうとお察しした。
誠意を込めて真剣に警策を与えるならばきっと激しい衝撃音を伴うことでありましょう。
今や家でも学校でも体罰の何たるかを知らない子らには此の上なき貴重な実体験となることでありましょう。
丁度賽銭箱の前でわたしは立禅のまま参禅させて頂いたことになる。
わたしとて有り難き実体験をさせて戴きました。
がまぐちから小銭を一つ投げ入れてきました。
今、学校教育現場でも何よりも家庭教育の場においてすら体罰行為が社会通念上御法度となってしまったご時世に於いて体罰以外の何ものでもない此の僧侶から戴く警策たるものは子ども達にとりては又とない実に貴重なる実体験となりはしないだろうか。