老いぼれの夕雲考《123》

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夕雲流剣術書        小出切一雲 誌(49)


 


人心を知らぬ人たちは畜生にも劣る


 


 


【此迷魂輪廻せば、いかやうの縁に引れて又立り生を受けまじきものにも在らず、佛法輪廻の説法あるも至理たり、かようの人の類を書くには、人面獣心などと聞よく云置たれども、夕雲は直ちに押付て畜生心の人と云はれたり、】


 


口語訳


 


そして、この迷って浮かばれない亡者の魂が冥界で生き変わり死に変わり輪廻するならば、どのような縁に惹かれてか再び立ち帰り生き返る事もあろうはずがないのです。


仏法の教えに輪廻の説法があるのは、この上ない正しき道理だといえる。


このような類の人たちを、物の書物には人面獣心と言い表わします。


聞こえがよい言葉で言い換えられたけれども、先師針谷夕雲は簡明直裁にずばりと畜生心の人と言い放たれたのであります。


 


 


夕雲流剣術の真髄すなわち誇り得る事


 


當流兵法の意地は元來勝負にかかわらず、取分け予が思所相打を以て至極の幸とす、其仔細は、兵法を用ゆるに及んで、其場漸く三つならではなし、一つは戰場の太刀打、二つは泰平の時主君の命に依て仕る、討者、扨は運命逆に成て不意の喧嘩の切合、此外更に太刀打すべき場なし、三つ共に其場の相討の死は武士の恥に非らず、取分喧嘩などは君父への忠孝にもあらず、不慮の逆境に臨て運の極る時なれば、恥を取らぬ前に討果るか、極運盡て既に恥を受るに依て討果るものなれば、切勝て身命を全うする事を心に掛る際も有まじきものなり、唯戰場は一日も存へ一人宛も敵を亡ぼし主君への忠を勵し度時なれば臆病にて命を惜無には非らざれども、身を全うして働程忠の立場也、】 


 


口語訳


 


当無住心剣流兵法の誇りは、もともと勝負には拘ってはいないことです。


取り分け、私が思うところに依れば畜生心を排除し、全勝を望まず、もっとも実際的な相討ちを以って修行の目標に掲げたと理解しているのです。


即ち、此の処にこそ夕雲流剣術の大きな特色を見い出すことが出来るのです。


其処の所をもう少し詳しく申しますと、兵法を用いるに際して三つの場面が想定できるのであります。


一つは戦場での太刀打ちである。


次の一つは、何事もない穏やかなときに、突然主君より命ぜられた果し合いでありましょう。


もう一つは、今までの成り行きが一転して、いきなり喧嘩の切り合いと相成ったときであります。


これ以外には考えられません。


此の三つのケースは共に、仮にその場に於いて討ち死にしても、決して武士にとっては恥ではないのであります。


取り分け、喧嘩の時には、主君や父親への忠孝を尽くす訳でもなく、思いも依らない不運に遭遇し運の尽きるときなので、こちらが恥を掻く前に当然相手を先に討ち果たすべきは言うまでもありません。


ところが時と場合によっては、運尽きて不覚にも先を取られて深手を負うこともありましょう。


このような時には、あるいは平常心を失うことも多々あることです。


しかし、それでも相手を討ち果たすべく、果敢に切り掛ってゆくのだが、やはりどうしても己から仕掛けて己の生命を完璧に全うしようという強固なる信念が薄れ行くという現実にも遭遇いたすのです。


でも、この様な時においても心の中の隙は絶対に相手に見せてはいけないは言うまでもありません。


ただそれとは別に、戦場へ赴いたときには一日でも命を長らえ、一人ずつ敵の首を刎ね主君への忠義に励むべき時なのです。


決して臆病風が吹いてわが命を惜しんでいる訳ではないのだが、何はともあれ我が身の万全を図りながら一日一日を懸命に働き忠義に勤しまねばならないことは言うまでもないことなのです。