老いのひとこと

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総体剣道会場の羽咋市体育館へ孫の応援に駆け付けた。


善戦むなしく潰え去ったのだが本人は殊の外さばさばしている。


でも、さぞかし内心は堪えがたき屈辱感に煮え返っているだろうとわたしはそう察した。


なぜならば彼女の部活動は只ひたすら自分自身との戦いに終始しただけに過ぎかろう。


それにしても御身一人で部活を継続したことが結果的には後輩たちの入部で存続の目途が立つに至った。


此れは、自分との勝負に勝利した何よりの証になろう。


試合では負けたが自分との戦いには勝っていた。


だから、晴れ晴れした表情に映ったのだろう。


三年間、よくぞ頑張ったものだ天晴ですと声を大にして申したい。


 


 


隣接する歴史民俗資料館に立ち寄り今年も土器づくり体験イベントへの参加申し込みを早々と済ませて置いた。


 


 


次いで、永光寺( ようこうじ)へ参ろうと「五石高」交差点を左折し「飯山」交差点も左折いたし大きな案内標示を目指した。


聞きしに及ぶ曹洞宗の古刹、巨岩巨石を配した延々とつづく参道が素晴らしい。


杉古木が生い茂り趣を弥益、やはり参道は山道でご老体には結構キツイ。


でも最後の石段は知恩院男坂に比べれば難なく行けたようで助かった。


道元禅師から四代目に当る瑩山禅師( けいざんぜんし)鎌倉時代の初期に地元有力者からの寄進より此の地に開かれたのだという。


その後、朝廷や室町幕府からの庇護のもと隆盛を誇ったが大火で焼失し前田利家がそれを再興したのだという。


それ以後は門前総持寺の末寺となり現在の伽藍の配置は寛永年間(1645年)以後のものなのだという。


ところが江戸から明治へ神仏分離令が出され廃仏毀釈の嵐が吹き荒んだ。


永光寺とて例外でなく荒れすさび荒廃の一途を辿り恰も狸や貉の棲み処と化したという。


男気に勝る山岡鉄舟は時の弧峯白巖禅師( こほうはくがんぜんし)に扁額や掛軸や壱萬枚に及ぶ書を贈ったという。


寄進寄附に応じた方への返礼返答に鉄舟の書が役立ったという。


近郷近在の中には今以って大事に保管されていられるやに聞いた。


目の前で見た大襖書の迫力には弩かっと魂消るほど圧倒された。


留守居を除けば人一人いない大きな永光寺の伽藍をわたくしだけが独り占めしていた。


しばし、大自然の中で寂光に包まれながら一時を満喫した。


 


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