老いぼれの夕雲考《125》

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夕雲流剣術書     小出切一雲 誌(51)
 
今に生きる我等は真剣での相討ちの場面は知ろうにも知りようがない。
そりゃ怖いだろうに、恐さ紛らすために一町四方に轟きわたる金切り声を発したという。
余程の強者と云えども戦慄に耐え切れず奥歯かたかた噛み鳴らし武者震いで手足がたがた踏み鳴らすが逸早く捨身を覚悟せし者こそが勝ちを制したという。
 
 
 
 
【此心得を以て予は、相討を最初の手引として兵法を傳ふる也、上古より近代迄の軍記共を見るに、相討を心安く思籠め、何つも相打よと心得たる武士は、一代運さへ盡ぬ程なれば、無類の勇を働きたること限りもなし、自分を全うして勝を取らんと思ひ討たる 者、思ふ儘に勝を得たるは一人も見えず、相討さへ快くはならずして片負け計りしたる類は多し、相討と云事を何の造作もなき事の様に、諸人は心得る事なれども、其場に臨みては、相討を憚り嫌ひて、全き勝を得度思ふもの也、常々軽々しく思ひこなしたる相討の其場に臨て何としていやには成るぜ、己れが心に二種ある様にて更に不審なるぞと云所に工夫を着けて、常住不變の心を備て、諸事の理を求る事専要なり、俗語田畑水練の類は皆々意識の成す所なり、意は眞實の者に逢うては必ず變じ易き者と知るべし、】
 
口語訳
相打ちの凄まじさを心得よ
 
此の心得で以って、私は相討ちを初歩的な手引書の中で兵法として伝えてきたのです。
かなり昔から今日までの軍記なるものを調べてみるに、相討ちを至って安易なものに思い込んで、いつでも相討ちに対応できると心得ている武士たちがかなり居るけれども無類の武勇を働いたという事例はそんなに多くはないのだ。
むしろ、己を全うして勝利を勝ち取らんと挑んでゆくが、思いのままに勝利した者は一人も居ないと言ってもいい。
相討ちさえも思い通りに行かぬばかりか、片負けだけに終わってしまうような事例も多々あるのであります。
大体において、相討ちなるものを何の造作もない安易なものに諸人たちは心得ているのだが、その壮絶なる相討ちの場に臨めば、誰しも相討ちを憚り嫌って尻込みしてしまう。
誰しも己だけの一方勝ちを願ってしまうのです。
常々、相討ちをば安易なものと思い込んでいる者こそ、その場に臨んで此の有様ではいやになると同時に情けないの一言なのであります。
 
真の精神修養は何処へ行ってしまったか
 
自分の心の中にしっくりしないものがあるならば、その不審に思う所に精神修養を積んで常住不滅の心の実体を準備して、物事の真理・真実を追究する基本的姿勢を貫くことが肝要なのであります。
俗に言う、畳の上の水練のように考えている事は立派だが実地の体験がないので、実際には役には立たないことがままあるのです。
これは全て、われわれの知識・感情・意思なる“意識”のなすところなのであります。
この”意識“と称する心の動きは”真実“に直面すれば、必ずや変化し易いものと承知すべきなのであります。