老いぼれの夕雲考《126》

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夕雲流剣術書     小出切一雲 誌(52)


小出切一雲の冷徹なる観察眼で捉えた哲学的処世訓と辛辣なる箴言が散りばめられていやしまいか。


 


【故に一切の學問は、見聞覺智在て辨口のかしこき者、當流には第一嫌也、見聞は耳目より入るなれば、大概は意に止て意の覺智と成て、結句自然天性の心の妙を塞ぐもの也、聖賢の遺書はみなゞ心理を示し道徳の門へ引入るべきためにて、たとえば高きに上る階の如くなるものなれば、好く學べば一段能事なれども、近代の學者に、書面より入りて天の眞心迄ヘ取付ましたる人終に承り不ㇾ及、大形はいかだに浮して浩然たる心の妙用を膠付の樣にしなし、自由を失ひ十方を辨へず、一方にさえ暗きやうに見ゆる學者のみ多し、諸人の師と成て高慢をする學者在り老儒さえ如ㇾ此なれば、夫を師と仰て讀み學ぶ弟子分の人に、千人に一人も本心を悟りて天理を見聞して、大道に志の移る程の學者はあるべかず、


 


 


 


鼻持ちならぬ傲慢なる人たち


            口語訳


それ故に、多くの文筆家・学者・見聞覚知が具わる弁舌爽やかな人たちは、当夕雲流剣術では第一に嫌われるのであります。


見聞は耳目より入るものですので、恐らくは“意識”の中に止まり”意識”の知る処となって、結局のところ自然天賦の心の妙を塞いでしまうのでありましょう。


もっとも、昔の賢人たちがこの世に残した書物によれば、その殆んどは心の働きを示しており道徳のジャンルへ引き入れるためのもので、例えば高い所へ昇るときの階段のようなものなので、上手に学べば大変好いことには違いないのであります。


しかし、近頃の学者の中には書物より入って天然自然の道理や誠の心まで会得し、それを己の体内へ吸収し終えたような人物には残念ながらお目に掛かったことがないのであります。


恐らく、従来からの型に嵌まってしまい生き生きとした心の妙用がまるで膠付けされてしまったかのように自由さを失い、周囲を見通して物事を客観的に識別することが最早出来なくなってしまっている有様なのではないでしょうか。


むしろ、一つのことにさえ、物事を理解し判断する知力すらなくしてしまったような学者しかいないような気がしてならないのです。


衆人の師となり済ましたような実に高慢臭い学者や年老いた学識高き儒学者さえもがこのような有様なので、それを師と仰いでお手本にして学んでいる弟子たちの中には千人に一人も真の心を悟り天然自然の道理を見聞し、更には大道に志を移すほどの学者は到底輩出するはずがないのだと断言できよう。