老いの回想記《127》

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その七 いばらとて 花芽つきしや 高尾台


 


刺々しい茨の道を彷徨い歩く。


我が勤務校遍歴七つ目の高尾台に齢51の時赴任した。


ちょうど三十年むかしになりますか。


長兄三浪の年、次男は高3三男は中浪の年になる。


或る意味大きな試練の年でもあった。


痛々しき野茨にも微かに花芽が膨らんだが荒れ狂う風雪に晒され憐れにも花芽は萎み消え失せぽつりと地上に落下した。


決して花は咲くことはなかった。


苦渋に満ちた二か年間であった。


 


                      


 


道場訓


 


 校内放送で流れる拡声器の音声がわが居宅にまで音波に乗って届いている。


声の主は何故かしら聞き分けがついた。


風に乗って鮮明に届いた。


つまり高尾台中学の校区の中に我が家はあった。


 何ゆえ学区内という気苦労多き所へ然るべき関係筋はわたしの勤務地を絞り込んだのか。


異動に際し当局は如何様な配慮を施してくれたのか知る由もがななのだがわたしは自分なりに極めて善意に解釈をした。


 このわたくしを救済するとするならば剣道部顧問の補充を要する、しかも道場設置のある学校でしか為し得ないことなのだと然るべき筋が判断したのに違いないと勘繰った。


どう見てもそれ以外には考えられる節が見当たらない。


 恐らく、この煩わしき厄介者を山元校長は止む無く持ち駒の一人に受け入れざるを得なかったのだろう。


四月早々の第一回目の職員会の冒頭で校長自らピアノ独奏を披露した。


確か愛の賛歌だっと記憶する。


極めて異例なことであり度肝を抜かれたことを覚えている。


 “なあ、お前さんよ、高橋君よ”、仔細なことに捉われず拘ることなく大らかな気持ちで新天地開拓に邁進したらどうなんだ。


斯なる無言の訓示だったのだろう。


少なくとも私はそのように、これまた善意に解釈した。