夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(54)
当方不學者に付よくわからぬが夕雲流剣術の剣理には六識六塵六根清浄という般若心経の教義が脈々と流れるという。
小出切一雲は老荘の教えから仏教の経典まで世の東西を他わぬ深い学識の持ち主であった。
当然ながら「空」の思想をしっかり学習していたのでありましょう。
【元来無學の時の良心に立歸る樣に手引専要なり、當流は無二色聲香味觸法一 の中より出たる者なるを、此理か彼理かと理を種として求めんとするは、無法の中の法識を生じて却て流の障となる、其外色より窺ひ、味もなき處に味を付け、味より入れんとする類、ことごとく無學の人にはまれにて、學者に多き病なり、】
口語訳
無学の時の良心に立ち返るとは如何なることか
もともと無学のときの良心に立ち返るように導くことが最も大事な事と相成るのであります。
当流の考え方に、次のような教えがあります。
即ち、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの根門を因縁とする心の作用を六識というのであります。
その六識の対象である色・声・香・味・触・法の六境より生ずる欲を六塵ということにいたします。
この六塵はいろいろな煩悩を生じ、心を傷つけます。
それ故に、六塵からの囚われを断ち切ることを六根清浄というのであります。
つまり、眼に色を入れない・耳に声を入れない・鼻に香りを入れない・舌に味を入れない・身に触を入れない・意に法を入れない。
しかし、これらは皆虚妄であり、皆迷いであるのだというのです。
このような教えの中から生まれたものなので、この理屈がどうのあの理屈がこうのと理屈の根源を求めれば、法に外れた道理のない中で判断してしまい、返って当流にとっては支障が生ずることになるのです。
その外にも、物事の華やかさを求め、物事の調子を窺がい、味もないところに味をつけ、その味より食い入らんとする類いの人たちは、ことごとく無学の時の良心の持ち主たちには至って稀なのであって、これらは凡そ一角の学者たちに多い病なのだといえるのであります。