老いのひとこと

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毎度のことながら日本人として生まれておきながら日本人の書いた書を読めない。


此れほど屈辱的悲哀はない。


悔しいがこればかりは如何ともし難い。


それで苦肉の策として思い付いたのが玉川の近世史料館の活用だ。


お若き学芸員に泣き付くしか手がなかったのです。


写真資料を添えて数点ばかり解読を依頼すれば快く応諾してくださいました。


ところが読んで戴いたもののその意味合いが此れまた皆目掴めない。


此れまたしても哀れの一語に尽きるのです。


 


 


父忠勝が秘かに所蔵した崩し字の掛け軸がある。


ところが、全くちんぷんかんぷん手も足も出ない。


それで玉川図書館へ持ち込んで読ん貰うことにした。


 


降ほとハ客にしたしき春の雨   青桐


 


陽和時至り万木千草生育していと


静に降たる徒然の折おのつから風話もうち


とけ春雨の余情万物に親しく秀妙の至り


ならすや        幾暁庵主人誌


と解読されてきた。


 


 


四苦八苦の末ヤケクソ気味に滅茶苦茶な口語解釈を試みた。


 


 


降るほどは


   客に親しき


       春の雨      青桐


 


青桐(せいどう)の句は芭蕉の門人山岸陽和 ( ようわ )の域にまで達したようである。


つまり、青桐の句は万木千草が見事に生育しとても静かな雰囲気の中にある。


つれづれなるままに自然と風雅な話にも打ち解け春雨の余情が万物に染み渡ったように情景を捉えているようにも一見みえるがしかしまだまだ秀妙( しゅうみょう)のレベルにまでは至ってはいないようである。


 


青桐の師匠である幾暁庵雲蝶( きぎょうあんうんちょう)は弟子青桐の句を手厳しく論評した。


 


これは稚拙なる無い知恵を絞って幼稚な知的好奇心を満たしたに過ぎません。