老いのひとこと㊿

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読み下し文=(河崎倫代氏作成による意訳文)

 

        遠藤孺人の墓碑銘

明倫堂助教であった大嶋桃年(*1)が撰文(作文)し定番馬廻の御番頭として仕えた能書家の長井寛卿(*2)が筆を執った。

 

遠藤孺人(じゅじんー御婦人)の諱(いみなー生前の実名)は鉚と云い歌人としての名は伊豆子と云うた。

定番頭であった遠藤高璟君の第三女である。

文政九年(1826年)の八月十二日に生まれで十五歳にして表小将横目であった津田清三郎近猷君に嫁いだ。

弘化二年(1845年)二月二日に嫡子(津田近吾こと津田香太郎)を分娩後病床に伏すこと十四日間、二月十六日に死す。

二月二十日に葬儀、諡(おくり名―戒名)は晴光院妙鉚日詠大姉という。

野田山の津田家先祖の墓地に葬る。

孺人の性格はすこぶる寡言(口数は少ない)にして家に在りては孝敬(目上の人によく仕える)を尽くし友と相睦み、・・・文を好み、国歌(和歌)を田中躬之(*3)に書を橘應(*4)に画を森充(*5)に学ぶ。

その筋はすこぶる観るべきものが在った。

嘗て、母にあたる定が亡くなった折には哀泣(悲しんで泣くこと)止まず和歌を以って母の墓前に捧げた。

【その和歌は万葉仮名で三十一文字で綴られていたが解読には至らなかった】

遠藤高璟の使いのものが孺人の行状を持って自分(大嶋桃年)のもとに来たり、そして墓銘を乞うた。

その墓は若い孺人・・・・・・以下解読不能

 

 

脚注

*1・大嶋桃年;墓碑銘を撰文した人、明倫堂助教

*2・長井寛卿;墓碑銘の文字を揮毫した人、定番馬廻の御番頭で能筆家。

*3・田中躬之(みゆき);前田斉泰に召され明倫堂の講師となり国学と和歌を教授した。

*4・橘應(観斎);書家、金沢に鵝群閣を開き書を教授した。 

*5・森充(西園);画家、金沢の人。

*鉚;遠藤高璟の3女、津田清三郎近猷に嫁ぐ。

   津田近吾(香太郎)の生母。

   歌名は伊豆子。

*定;鉚の実母、遠藤高璟の妻。

*難解な言葉

 ・孺人(じゅじん)=妻、婦人

 ・諱(いみな)=生前の実名

 ・諡(おくり名)=戒名

 ・浮屠(ふと)=僧侶、仏陀、佛

 ・先塋(せんえい)=先祖の墓、先祖代々の 墓

 ・齎(し、せい、もたらす)

 ・孰(じゅく、しゅく、いずれ)

 ・盡(じん、つくす)

 ・茲(じ、ここに)

 

 

 

惜しむらくは鉚が母定の墓前に捧げたという

和歌の文言が不詳なるは何んと云っても口惜し

い限りだ。

若しや明倫堂の書庫にでも散逸しては居ない

ものだろうか。