老いのひとこと(55)

津田近三に纏わる自分史の最終ページは一応結末をみたので幕を引いた。

事実、先回の記述を以って此の件より足を洗い身を退き何よりも其の折には日付を打って「完」の文字を添えたのです。

処がなんとわたし以上にしぶとき気骨あふれる人物が突如現れた。

外でもない舟田敏氏である。

此の方の洞察力にはシャッポを脱ぐ、驚く勿れ近三の第三子津田より(従)の消息を見事に探知されたのだ。

東京都の人事興信録より津田外喜雄の妹明治9年2月生まれの津田従(より)が安田則人なる男に嫁いだことを付き止めたのです。

更には明治24年に長女兎喜子、明治28年に長男益人、明治31年に次女ちかこ、明治34年には三女貞子、そして明治35年には次男昌人の五子を儲けたのである。

戸籍上の個人情報の厳格なる秘守義務とは裏腹に此れら全てはネット上で開示されているという。

余りにも片手落ちな措置で誠に腑に落ちない限りだが此れが此の世の実態のようだ。

おまけに其の居住地の地番にまで検索が叶ったと舟田氏は言う。

とは申せど、まさか東京都庁の戸籍課へ乗り込んで遡及しても始まらない。

門前払いを喰らうは関の山、只かりそめにも万が一此の五人の者の血を引く子孫が生存いたすにしても近三の娘「より」が津田一幽家の正当なる血統者である保証は何処にもないし知る手立てはある筈がないのである。

 

 

空しい限りながら此の半山の墓並びに近三の墓は縁故者無きに付き無縁仏とせざるを得ないのである。