老いのひとこと

二つの白磁器に納められた夥しきお骨は野田山墓地の後割甲に位置するわたしの墓の屍櫃(からびつ)(カロウト)に無造作に敷き詰められ、そして其の上に倶利伽羅峠で採取した山砂を覆い被せまさに我がご先祖は滞りなく大地にお帰り遊ばされました。

 

ただ此のご先祖が何処まで時代を遡る事が可能かを調べるために墓地管理事務所にて墓地台帳の閲覧を願い出たが見事に拒絶された。

全てのデーターがデジタル化されコンピューターに内蔵されるのだが私的な検索は此れまた罷りならんと言われる。

結局判明に至ったのは残念ながら祖父勝太郎までで此れでは話にもならぬ。

わたしは執拗に明治初期か藩政期の紙台帳を要求したが斯くなるものは最早此の世には存在しないと告げられ悄気返る。

曾祖父精路・高祖父金之亟・五世の祖父喜ヱ左衛門の名が、後割甲の地番1458-3の使用権者名簿には必ず在ろう筈だと尋ねたが終ぞ敵わなかった。

少なくとも白い焼骨が風化し黒く変色を来たすには数百年を要することから察すれば藩政期のご先祖に思いを致しても何ら不自然ではない。

少なくとも大橋家と高橋家の橋渡しをした大橋喜ヱ左衛門と高橋金之亟父子の御代の御遺骨が混在することを厚く確信したのだが検証する術がない事が判明し極めて残念なのだ。