老いのひとこと

舟田氏の執念には些か驚きを禁じ得ない。

彼は大正から昭和初期の頃小学校で教鞭を執ったという自分の叔父の足跡を執拗に追跡し遂には居所を突き詰めたのだと誇らしげに語る。

そして、彼が言うにはわたしの親爺の分まで探し当てたのだと鼻息を荒くして其の事を報告がてらにわざわざ拙宅まで来駕くださったのだ。

早速乍ら、いとも容易くわたしの父親の顔写真をパソコン上に表示されたではないか。

親爺二十歳の初々しい素顔に違いない、大正9年3月に石川師範学校本科第一部の卒業記念写真が目に前に飛び込んできたのです。

詳しいことは知る由もないが恐らく一時は秘匿情報で在ったであろうが期限きれで全面的に公文書の情報開示がネット上オープンになったのでありましょう。

公文書の情報開示はもはや時代の潮流に為りつつあって、そうなって然るべきことだろう。

 

往時の写真資料が破棄されずに済んだだけでも御の字ではないか。

 

親爺さんはやはり何んと云っても親爺さんに似ていて当り前だが親子なので何処となく此のわたしにも雰囲気が似ているようだ。

それにしてもわたしには何時も厳父であった父親が斯くも柔和に映るとは矢張り齢の所為だろうか。

当然弟たちにもよく似ているよ。