老いぼれへぼ教師の回想記《60》

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 六十年前のあの当時、新聞にて南米未開の新天地ウルグアイへの移民を誘う記事に出くわしことがあった。
 貪るように目をやるうちに、生まれてこの方体験し事のない異様なる心情がエレキとして全身に走った。
 居ても立っても居れない熱い思いを即刻行動に移し、わたしは小松市内のとある一角を目指し自転車のぺタルを一心に漕いだ。
 既に御芳名は失念してしまったが、移住を決断為されたお宅へ飛び込んで、懇願に及んだ。
 渡航費用十五万何某かの金額をお聞きしたことまでは覚えている。
父に直談判したが同意は得られなかった。その時の、父の切なく苦渋に満ちた表情をどうしても忘れられない。
 
 
その五 挑戦と試練挫折の河北台(8)
 
士族の商法=その8 
 
何ゆえならば、私は国立金沢病院精神科病棟からの生還者に他ならない。   私は心を病み、高校三年時の大部分の学業を放擲してしまった敗北者に他ならない。
私が心の病から治癒する方向へ転機を促したのは故郷を捨て親元を離れることしかなかった。
ウルグアイ移民もその選択肢の一つであったが父親は私への莫大なる渡航費用の負担を口実に拒んで来たことが理由で頓挫した。
それで、京都の地でもう一度学業へ復帰する道を漠然と決意した。
然して当てもなく立命館大学経済学部経営学科に合格してしまった。
この間の経緯については実母としとのかかわりの中で章を改めて詳述しなければならないのである。
いずれにしろ、商家の出ならいざ知らず、学園にて始めてお目にかかった商業に関する実習には頭から梃子摺った。