老いのひとこと

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満身創痍のまま辛うじて高校を出た昭和29年わたしは父に激しく談判し南米パラグアイ渡航を強要した。


渡航費用を父に願い出たが父は頑なに認めてはくれなかった。


丁度その頃母の体調思わしくなく既に重篤なる病巣を宿していた。


依然として不安定な精神状態のまま此のわたしには浪人生活が強いられた。


在学中に知り合った友人がいた。


彼は能美郡山上村字岩内出身の純朴そのものの好人物だった。


外二君と云った。


胸の内を語り合える数少ない友だった。


日にちこそ忘れた8月の末頃だったかわたしは彼の家を自転車で訪問し何日間か居候した。


今から思えば迷惑を顧みず一週間ほどの長期滞在だった。


その彼の母親は彼以上に輪を掛けて優しい方だった。


三度の賄いから風呂沸し、又鎌を持っての稲刈りにも共に興じた。


ほろ苦いわが青春時代の中にあって唯一和らいだ情感が胸の奥底にインプットされた体験だった。


彼はその後小松市内に居を移し教職に身を置き教鞭を執られたがつい先日他界されてしまわれた。


何故かしら不思議なもんだ嘗て彼と夜を徹して語り明かした彼の実家を無性に見たくなった。


65年ぶりに岩内の村落に足を踏み入れ漸く探し出した。


道案内を乞うた。


田舎のお人はみな親切だ、みな尋常ではない我が事のように見知らぬ来訪者を持て成してくれた。


生憎、家の御方は不在だった。


改築されてはいたが何となく当時の面影を感じ取った。


それで良かった十分だった。


思い残しはない。


 


 


なお、我が母はその翌年昭和30年に骨肉腫を患い世を去った。


わたしはその年に京都で再出発する決意をした。