老いのひとこと

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玄侑宗久氏と福岡伸一氏の両氏に直に会える滅多とない機会を捉えて市の文化ホールへ参りました。


鈴木大拙館が主催する恒例の金沢・現代会議だがそもそも此のわたくし如きものが顔を出すこと自体おこがましい限りに思う。


でも此処に足を運んだ以上は目を見開き耳を傍立て拝聴した。


でも残念ながら只ぼんやりと霞みを掴んだような曖昧な理解に留まってしまった。


難しくて要の部分は聞き流すに過ぎなかった。


禅と云う目に見えぬ形而上学的な世界と生命体と云う目の前にある形而下的な世界、此の異質な二つが響き合い奏で合い心地よい水琴窟の音色のように聞こえてきた。


また万華鏡を覗き込むような止まることを知らぬ千変万化の世界を著名な文化人の御二人から矢継ぎ早

やに提供された。


達磨の頃から一定不変の禅の世界にも時代と共に変化が在ったと云う。


また我ら人体とて一見変わらぬように見えるが体内の60億の諸細胞は凄まじい勢いで破壊と創造が繰り返されているのだと云う。


生命体の中で永遠に続く分解劇と合成劇が同時並行的に執り行われる不思議な絡繰りをみな固唾を呑んで聞き入った。


40億年むかしに誕生した生命体が今日まで持ち堪えたのは破壊と創造、分解と合成のお蔭だと云うのです。


 


 


わたしは思った。


わたしはわたしの父と母から夫々異なる遺伝子で綴られる二枚の楽譜を手渡された。


その両親から戴いた立派な楽譜を今日までわたし自身が奏でて来たのだが十分な音色を出せてはいない。演奏は失策の連続ではないか。


我が両親に済まない思いが込み上げてきた。


申し訳ないことをしたものだ赦して下さいと云って父母に詫びた。

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