老いぼれ教師の回想記《123》

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その六  石垣の 陰に潜みし 将中や
 
此の親ありて此の子あり。
畢竟、此のわたしが諸悪の根源でありわたしの子育て術に手落ちがあった事を証明する何物でもなかったのです。
今でこそ、そのことに気付くのです。
あの時、親と子共々に折檻を下された其の当事者の御方はもうすでにこの世には居らっしゃらない。
 
 
青天の霹靂=その4
 
この特学生徒との一件の折りには中心的な御方から“あんたの育て方に問題があるのじゃないかね”とはっきり言明されたことを今以って覚えるのです。
言わずもがななことを敢えて直言された。
此処も教育の現場に違いない。
私が教育される立場の者として尋問台に立たされた訳なのだ。
それはあたかも人民裁判での被告人席同様であった。
何度も言うが私はおのれの非を全面的に認め打ちひしがれ、項垂れ果てていた。
教育の現場には斯くも生々しき修羅場が時と場合によっては設定されることを私は此処で始めて知った。
そこまで言われた時はさすがに私は応じ返す技が喉元までこみ上げたが、おのれを制して力なく頷き“すみませんでした、お許しください”と再び深々と頭を下げた。
その時の私の目には周囲を取り巻く大方の傍聴人は猜疑の目で以って私を凝視し続けているように思えた。
少なくとも私にはそう思えた。
少なくとも私にとっては同じ仕事上の仲間たちに違いはないのだがみな私の非を咎めようとする鋭い目に映った。
しかし、それは尤もなことであり、当たり前過ぎることなのでありました。
校長室を後に悄然と廊下に出た折り背後から言葉をもらった。
私の背中に手をやり、“余り気にせんこっちゃ。息子たちのためにも気をしっかり持ってやるまっし”この様な意味合いの言葉だった。
とても優しき言葉に聞こえた。
渡辺欽也先生だった。
先生とは紫錦台でご一緒したことがあった。実に温かい言葉であった。
私にとっては忘れがたき絶妙の言葉であった。
 私はこの言葉で幾分救われた。
学校へ帰り、当時生徒指導主任を担当された加藤幸三氏に一切を打ち明けていた。    全てを吐き出したことで私の心中も安らいだし、氏は年齢的には私に比し随分若かったのだが理解ある態度でいろいろ相談に乗ってくれた。 
感謝しているのです。