老いのひとこと

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巌のような自然石で建てられた「半山君」の墓の真横にまるで寄り添うように小さき一体の墓石がある。
明治14年に「津田近三」がこれを建てたということだ。
その前面には壱拾壱の戒名が連記されている。
そして、その中の一つに「顕壽院殿近三日正居士」の文字が読み取れるのです。
どうもこれは、「近三」は自分が亡くなった後に津田近三の名前でこの墓を造るように誰かに依頼したものに違いない。
そこで直ちに、わたしは「治」のことが胸中を過ぎった。
「清三郎」の後妻であり「近吾」にとっては継母になり「近三」「伴四郎」には生母に当たる「治」は
明治14年時点にはまだ存命で在ることを知った。
 
 「津田近吾」はこの世を去る10年前になる明治17年に家督を長男「辰太郎」に相続させている。
 その「辰太郎」が戸主と表記される明治初期の戸籍謄本を照合いたせば、亡祖父清三郎妻「治」の名が間違いなく記載されていて明治28年に死亡したとある。。
 なお、腹違いの息子「近吾」は継母「治」より先にその前年の明治27年に他界している
 「治」はわが実子「近三」からの言づけ遺言に従い、実父母名は不詳ながらわが生家と養父笠間又六郎らに纏わる一族の者たちの戒名を此処に列挙し一覧させたのでありましょう。
 「治」にとっては夫である「清三郎」こと「半山君」の巌の如き大きな存在の脇に細やかに控えるように連れ添っている姿はある意味痛々しくも見えるのです。
 しかし、考えようによっては津田家の大きな流れの中にあって消え入るような亜流であったにしろ、この「治」に関わる一連の人物が歴史上に存在した証拠として観察致せば、いくら形姿は小さくても誇らしくも見えて仕様がないのです。
 
 此の分にも若干フィクション部分が含まれていますのでお断わりしなくてなりません。
 確かに、邪悪なるお遊びなりと自認いたす処です。
 但し、わたしにはわたしだけの世界に籠もり其処に浸って悦に入る自由もあろうことと別の自認もいたすのです。
 
 
 
 
 
 
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