夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(55)
何とも高尚過ぎる表現なので浅学の者には歯応えが在りすぎて随分難儀しました。
一雲は先達針ヶ谷夕雲の教えから素晴らしい薫陶を受けていた。
【一切の書中にある向上語には、其道徳體用成就を、脇より讃嘆して言ひたること多き者なり、たとへば孔子を子貢がほめ奉て温良恭謙譲と云とも、孔子の温良恭謙譲を、其儘取もなをさず云出たる語なれば、今の學者温良恭謙譲の字心を求て温良恭謙譲の徳を滿とする便りにはなるべからず、讚 ( たづぬ )れば彌 ( いよいよ )堅し、仰げばいよいよ高し、前にあるかとすれば忽然として後に有と云れたるは、顔子分上の道徳にて、讚て堅を知り、仰て高きを知り、前を見て後にあるを知る、是皆顔子の分上にて、孔子を窺ひ了る語也、我身顔子にあらずんば、堅きも高きも合點はあるまじ、此類の語書中に際限もなし、】
口語訳
今日学者といわれる人たちの中には
在りとあらゆる書物の中に見る“向上”という言葉には、その道徳面の応用と運用がうまく運ぶことを側面より感嘆し称賛して言われた事が多いのであります。
例えば、孔子のことを弟子子貢は褒めちぎりながら言うのです。
同じく例えていえば、巷でよく聞く温良恭倹譲 ( おんりょうきょうけんじょう )という言葉にしても、取りも直さず孔子の温良恭倹譲なる言葉をそのまま言い出したに過ぎず、今日の学者たちはこの温良恭倹譲の文字面のみを求めて温良恭倹譲の徳を満たさんと色々挑戦しょうとはしているものの所詮は二番煎じに過ぎないのではないでしょうか。
ところが私自身は顔回でない以上、硬いも高いも合点行きかねるのであります。
この類いの言葉は、書物の中には際限なく存在するのです。