老いのひとこと

今日は「こどもの日」、何時ものように2時間ばかり外歩き。

出逢うはかつての大昔には初々しきお子様であったであろうはずの大OBと大OGたちばかりである。

嬉々として飛び跳ねる子どもたちの為の「こどもの日」で在るにも拘らず皆目見当たらない。

皆どこか遠くへお出掛けなのだろうか、

宿題に夢中なのだろうか不思議な世界へ迷い込んだものだと感心する。

今日唯一のお子様は石踏み公園のベンチの脇で日向ぼこするベビーカーの男の子だけだった。

付き添う若きお母さんに「今日初めて出会ったお子さんですよ」と語り掛けたつもりだったが「ええ初めての子です」と嬉しそうに応答して呉れたのです。

石踏み中にかつては可憐な乙女であってであろう老女が近寄り一枚のパンフレットを手渡す。

見れば寂しげな少女が映る、子どもの貧困問題に取り組むNgOのお方と思い献身的活動に讃美を贈るが怪訝なお顔のまま立ち去られた。

後で開けば「エホバの神」の分身で在られた訳で些か気落ちした次第です。

 

家の近くの小学校のグランドではほん の少し前にはその仲間であった若者が二人野球のトスバッテングに打ち興ずる、実に巧みだ。

的確にピッチャー返しに徹している、恐らく高校野球で鳴らした二人で在ったのであろう実に上手だ。

 

此れにてわたしは「こどもの日」を十二分に堪能できたのです。

変わった人間に変わり果てたものだ。