老いぼれへぼ教師の回想記《5》

311被災地における地縁集団というべきコミュニテイー社会の絆の強さがよく話題となり国際的にも日本人の公序良俗の善さとして評価されていた。
昭和三十年代の此処菊水の地は家屋は萱葺きを旨としていた。屋根の葺き替えには集落上げて善男善女が参集し無報酬で奉仕した。
実に微笑ましき共助のしくみがあった。長老から、これぞ「ユイ」なのだと教えを授かったことをよく覚えている。
其の菊水の地では血縁も地縁もなき存在の此わたしが一生忘れがたき深き恩義を授かってしまったのです。
其処に住むもの同士の絆で繋がっていた不思議な縁。みんながみんなのために力を合わせて団結協力しなければみんなが生きてはいけないことをみんながよくよく理解し合っていた所なのです。
菊水はよいところでした。素晴らしいところでした。忘れがたき第二のふるさとなのです。






スキーと骨折

 冬の日の放課後ともなれば、子どもたちはよく菊水ゲレンデでスキーに興じた。もっとも、地形的に周囲は山々に囲まれている小盆地なので、平坦なるスロープは望みようがない。
ジャンプ台のスロープのような雪面を一気に直滑降で滑り降り、パラレルにて急制動するのが、何ともいえぬくらいにスリリングで面白い。
 にわか仕込みの幼稚な技術の持ち主でしかない私は、その時一段と高い箇所から愚かにも滑り始めた。加速した状態のまま制動のタイミングを逸し、新雪の中へ飛び込むや否や激しく急停止した。
 一瞬、足首に痛みが走った。ヤッター!やってしまった!
最悪だ!茫然自失。全身より血流が抜けた。観念せざるを得なかった。
 中村利雄は逸早く、私を背中に背負い学校へ担ぎ込んでくれた。既に、右足首のくるぶし付近に腫れとしびれの混じった鈍痛を覚える。
 夜半過ぎより、益々痛みが増し、幾度となく湿布が施された。沢田先生の好意に頭が下がる。
 隣の部屋では深夜をも厭わずに、壮年部の有志が集い善後策を講じている。明朝、夜明けを待たずに下道で小原まで出ようとの相談内容が襖越しに私の耳に入った。
 堂町経由で小原に至る下道に対し、後高山を山越えして獅子吼高原を経由して鶴来町に至るルートを上道と称した。下道には雪崩の危険性が伴うが、気象条件等を勘案し身の危険を回避できる可能性を話し合ったのだろう。その間、同時進行的に音もなく深々と山雪が降りしきった。
 町内の壮青年部総員二十九名がすべからく事に当たるという、一大事となってしまった。町を挙げての救出活動となった。予想以上に雪は深かった。
 先導する若者たちが数人、越し板でラッセルするが、電柱と電柱の間を行くのが精一杯でラッセル隊は繰り返し繰り返し交替しながら前へ進んだ。終始、無言の行列。終日、パントマイムが続いた。
 体力の浪費を極力避けながら力の配分を考慮した極めて合理的な村人たちの生きるための知恵を知った。
 後続隊が、更に雪を踏み締めた後を担架に担がれた屍になりかけたような私が最後尾に位置した。
 とどまる事を知らずに降りしきる無情なる雪。その新雪以上に恐ろしいのが雪崩とりわけ泡雪と称する表層雪崩だ。
 男衆は細心の注意を払いつつ、ただ黙々と声もなく静かにゆっくりと一歩一歩前進した。夕暮れ頃、ようやくにして小原に到着し、最終バスに間にあった。
 平和町の市民病院外科に入院、一ヶ月あまりの休職が余儀なくされた。その間、本校より田地先生と富田先生が補欠として分校まで赴かれたと聞く。
私の一方的な不注意と慎重な配慮を欠いた行為が多方面に亘り、かくも大勢の人たちに迷惑をかけてしまい慙愧に耐えないのである。
今更のように二十九名に余る尊き町衆に篤い篤い恩義を強烈に抱く次第なのだ。
計り知れない、莫大にして巨額の借りを返さねばならないのだけど為す術がない。申し訳がない。この一生の借りを一生掛けて如何にして償うべきか・・・つづく