下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《11》

直木三十五は「剣法夜話」の中では夕雲流剣術の相抜けには触れられていない。
でも、直木氏は、夕雲は文盲の人とはいえ琥珀禅師より老子思想の何たるかを学習していた程の人物なのだと高く評価している。

此れはわたしの稚拙な私見に過ぎないが、尖閣問題で国論が沸騰していた時、へっぴり腰の腰砕け外交とか及び腰外交、はたまた柳腰外交と散々揶揄された仙石前官房長官は高邁なる学識を積んだお人だったので、あるいはひょっとして此の老子道徳経第六章とやらに裏づけされた論拠で色々物申されたのかもしれない、とそんなことを直感した次第なのです。
けれども、本人からも誰からもそのような指摘はない。

男の論理で猛々しく戦うだけではなく、もう一方の女性的観点で物事を処す見方考え方が存しても決しておかしくはないと思いたい。
そういった少数意見に耳を傾ける雅量とバランス感覚が物凄く大切なんだと思う。
狭隘なる国家主義思想に凝り固まるような愚は御免被りたい。

人斬りが公然としていた時代に、そのことに反論を唱える勇気ある御仁が大勢いたことは天晴れというしかない。











但し、夕雲と一雲の両人が老子道徳経の第六章にいう《谷神は死せず、此れを玄牝という。玄牝の門、此れを天地の根という。綿々と存するごとく、此れを用いて尽きず。》の何たるかを学習し、この老子思想を見事に受用していた節があるのだと直木氏は切々と指摘されるのである。
彼我共々に刀を抜くということは、どちらか一方の生死に関わる問題になる。
自分が遣られるということは大変なことには違いないが、他人を殺してしまうことも容易ならざることなのだ。
多くの剣客たちは、連日連夜このような場面に遭遇し、このようなことを心に掛け、こういった境地を実感してきた。
そうした中にあって、本当に心ある剣士は、何時の間にか生死のことを離脱し超越した剣法を編み出しながら悟りの境地を切り開いていったのであろうと推察した。
夕雲・一雲の無住心流にみる「相抜け」の極意に相呼応するかのように、山内一真・関野信歳・池田成祥・寺田宗有らは平常無敵流を編み出し、そこに「谷神伝」なる極意を確立していった。
それは、我に敵なしと豪語する意味ではなく、己が虚心坦懐に振舞えばおのずと敵なるものが生ずるはずがないのだと説くのである。
富田流の形六本を用いていたが、終いには此れすら捨てて心法のみとした。
またこれとは別に、夕雲の兄弟子にあたる神谷傳心齋頼春(神谷文左衛門尉平眞光)は小笠原源信齋の跡を継いで鹿島神流師範家の第五代目正統者として真新陰流の名をほしいまました人物であった。
処が、この伝心齋は六十七歳の年に紙屋伝心と名を改め、事もあろうに「新陰流」の系譜をも捨てて「直心流」という新流派を旗揚げしてしもうたのだ。
その根拠は、そもそも剣術の勝負なるものは真理に背き逆らう乱心の末の技に他ならず、此れでは埒が明かない。
剣の道を極めれば、仁義礼智信五常を修め、赤子の心のような無我無念の直心でもって進むしかない。
然すれば 、人を斬る先に己の在らざる心、非心を斬らねばならない。よこしまな心、邪心を斬らねばならないことに気付くのだという。
「非切」を極意とし、心の非を斬る剣法を一生貫いた。防具の類いを一切用いることがなかったのだという。
図らずも、老子思想が媒体となって「無住心剣流」・「平常無敵流」・「直心流」という風変わりな剣法が、殺戮行為が平然と正当化されるこの時代において見事に併存した事実は、此れほど画期的な素晴らしいことはないではないか。
つづく