大阪の旅≪6≫

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➅しょむない話だが安来の街に居ながら月山富田城くらい見たかったがやむなく割愛した。


戦国武将山中鹿之助の名言「我に七難八苦を与え給え」の遺訓を称えせめて城跡だけでも一見したかったが残念無念というしかない。


 


松江城へは旅館から歩いて10分ほどで行けた。


此の松江城は昭和10年に国宝に指定されたというからあの我らが大垣城と同時期に相成ろう。


それが戦後は重要文化財と名を改めたが再度平成27年には国宝に格上げされたという。


二度の国宝指定は押しも押されもしない正真正銘のほんまもんに違いない。


慶長16年(1611年)に城普請の名人でもあった堀尾家一族によって建てられたという。


次いで城主になったのが若狭国小浜の京極忠高で幕府が直轄する石見銀山を取り仕切ったとのお話だ。


次いで越前松平家から松平直政が入城し以後松平家一族が城主を務めたのだという。


直政は家康の第二子・結城秀康の三番目の子だと書いてある。


その時ふと訳のわからぬジャレ事を思った。


そう言えば我らが加賀前田藩家老に松平康定なる人物が居た。


此の康定は一説によれば家康のお祖父さんの孫にあたる人だという。


つまりは家康とは従兄弟の間柄なので松江と加賀の両松平家は共に徳川将軍家と親類縁者同士ではないか。


そんなアホクサイことを思い浮かべながら古色蒼然たる城内の急勾配な階段を上り下りしたのです。


金沢の犀川大橋の橋詰に浄土宗寺院「妙慶寺」があり其処で松平大弐の墓を参詣したことがある。


藩政末に世継ぎ前田慶寧の大失態に側近であった大弐は詰腹を切らされ見事腹を掻っ捌いた。


此の見応えある松江城とは全く無関係な出来事ではあるが何となく身近に此の松平家の事を感じ取りながら美しい天守閣を仰ぎ見たのでした。


 
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