老いのひとこと

イメージ 1






今日のお話は真宗大谷派のお坊さんだったので何時になくお参りが多かった。


と云ってもせいぜい十名ほどだがそれでも信仰の道に足を踏み入れられたと思しき面々であられた。


然すれば好い加減な宙ぶらりんは此のわたしだけだったかもしれない。


何となく肩身の狭い思いにさせられたのです。


メインの墓石を竿石と云うとおっしゃる、何処のお墓も南無阿弥陀仏と刻まれ中には俱会一處と表わす家もあると云う。


今日のお坊さんの戒めの言葉として墓参りをただ形式的に惰性的に行っても意味が無いのだと強調される。


所謂お坊さんらしいお説教が此処から始まることになる。


仏事として墓参りを致すべきであると説諭される。


仏の命の主体たる阿弥陀仏に確と手を合わせ念仏を唱えなければ只単に焼香をしただけでは意味を為さいと盛んにおっしゃる。


皆さん神妙に肯きながら真剣に聞き入っていられるのです。


少しも素直でない天邪鬼はどうしても不審に思わざるを得ない。


仏の命の主体である御本尊は阿弥陀如来だけではないはずだ。


他の宗派の御本尊はそれぞれ別個にいられるはずではないか。


釈迦如来とか大日如来薬師如来も観音さんいられる。


もう少しマクロな目で仏教を捉えられてよいのじゃなかろうかと独り善がりなことを想う馬鹿者がいた。


でも今日のお坊さんはお東さんを信仰為される御方なら当然ミクロな観点でお説教が組み立てられて当たり前だと思ったりしながら此のわたしもお話を聞き入ったのです。


 


そう云えば此のわたしの墓の御本尊は実に曖昧な「佛心」だったのです。