老いのひとこと



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今回の教養講座は真宗のお坊さんのお話でした。
お彼岸には少し早いがお彼岸を迎えるにあたって其の心積もりのようなお話を為されるが実はこれが大に苦手でよく判らない。
判らぬなりに瞼を大きく開いてよくよく聞けば人は三度死ぬるとおっしゃる。
一度目は所謂病死、事故死等の生理学的な死亡で医師が立合い診断書で証明される。
二度目の死は新聞の死亡広告欄等で世間一般に告知されることだと云う。
つまり社会的にその人の死が認知されることを意味するのだと云う。
そして三度目の死は世間一般から其の人の存在そのものまで忘れ去られ消え失せることを指すのだとおっしゃる。
其の人に関する情報が完全に途絶えて嘗て此の世に存在した事を思い返す人が誰一人として居ない状態に陥った人が三度死んだ人になると云うのです。
三度目の死を迎える人には時間的個人差が極めて大きい事になるでしょう。
クレオパトラ卑弥呼は今以って生き永らえ此の後も永劫に生き続けることでしょうし他方孤立無援で引き取る身寄りとてなく敢え無く三度めの死を喫した
人も居よう。
いや此の世に生を賜わりながら若くして此の世から忘れ去られようとしている非業の人も間違いなく居よう。
僧職にあるお坊さんこそが此の人たちを救わねばならないのだと徐におっしゃられた。
 
誰にでもやってくる此の死を心安らかに迎え入れられる説法を施して戴きたいものだと日頃つくづくそう願う者です。
 
昨夜「釜ヶ崎」を見た。
棄てる神ありゃ拾う神ありでよかった。
救われた。
が・・・