今回の教養講座は真宗のお坊さんのお話でした。
でも此のわたくしは恥ずかしながら読んではいないし作品名すら知らなかった。
宮澤賢治についても通り一遍の事しか知らない。
ただ一番孫が小学生の頃によく「風にもまけず」を一言一句狂いなく口にしていたことをつい思い出したりした。
曖昧な理解のままお話を伺えば本日の真宗のお坊さんは決して此の作品を否定的に捉えてはいらっしゃらない。
むしろ肯定的に評価為されながらお話しされたのです。
失意のどん底に落ち込むチェロ弾きのゴーシュが猫や郭公や子狸と野鼠親子たちと一夜を共にするうちに立ち直り甦りゆく様子を物語にした。
さすが有能なる賢治の構想力には只々感心するばかり。
と同時に此の賢治の構想には当然ながら法華経の教義が染み渡り溶け込んでいる筈ではないかと思った。
しかし此のわたしにはそんな肝心要な所を見抜く能力はどこを捜してもない。
でも今日のお坊さんにすれば当然見抜かれて居られると致せな法華経の教えに賛辞を贈り讃美されたようにも覗えてならない。
そういう割り切った世界のあることをわたしは知ったことになる。
言い換えれば人間如何ほども虐げられ零落れたとしても目に見えぬ味方が此の世には必ずや居るものだ。
如何にどん底の苦境を味わおうとも必ずや救いの手を差し伸べて呉れる佛心には大いに感謝申さねばならない。
それでも、正直のところ此のわたしには能く判らない。
拙いことは血をひく此のわたしは其の佛心を未だ引き継いではいないのである。