老いのひとこと

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今回の教養講座は真宗のお坊さんのお話でした。


宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」と云う作品を題材にしてのお話でした。


でも此のわたくしは恥ずかしながら読んではいないし作品名すら知らなかった。


宮澤賢治についても通り一遍の事しか知らない。


ただ一番孫が小学生の頃によく「風にもまけず」を一言一句狂いなく口にしていたことをつい思い出したりした。


併せて賢治は浄土真宗の厳格な家に育ちながら何故かしらやがて法華経に傾倒されていかれた事をぼんやり思い返した。


曖昧な理解のままお話を伺えば本日の真宗のお坊さんは決して此の作品を否定的に捉えてはいらっしゃらない。


むしろ肯定的に評価為されながらお話しされたのです。


失意のどん底に落ち込むチェロ弾きのゴーシュが猫や郭公や子狸と野鼠親子たちと一夜を共にするうちに立ち直り甦りゆく様子を物語にした。


さすが有能なる賢治の構想力には只々感心するばかり。


と同時に此の賢治の構想には当然ながら法華経の教義が染み渡り溶け込んでいる筈ではないかと思った。


しかし此のわたしにはそんな肝心要な所を見抜く能力はどこを捜してもない。


でも今日のお坊さんにすれば当然見抜かれて居られると致せな法華経の教えに賛辞を贈り讃美されたようにも覗えてならない。


 


つまりは、生粋の真宗のお坊さんが紛れもなく宮澤賢治の作品を評価為されと云うことは最早其処には他力も自力もない、お念仏もお題目もない、善いものは善いに決まっている


そういう割り切った世界のあることをわたしは知ったことになる。


言い換えれば人間如何ほども虐げられ零落れたとしても目に見えぬ味方が此の世には必ずや居るものだ。
如何にどん底の苦境を味わおうとも必ずや救いの手を差し伸べて呉れる佛心には大いに感謝申さねばならない。


それでも、正直のところ此のわたしには能く判らない。


 


 


そう申せばわたくしの曽祖父ひいじい様高橋政之丞精路は若かり頃は法華経を信仰し高橋家に養子に入れば真宗大谷派のお東さんへ改宗した人物であったはずだ。
拙いことは血をひく此のわたしは其の佛心を未だ引き継いではいないのである。