老いのひとこと

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一時前まではお坊さんのお話には振り向きもしなかったものがやはり齢なんでしょうか最近は何かと気に為って仕様がない。


遇数木曜にはなるべく顔を出すように相勤めお説教に耳を傾ける。


ところがどうした事かお坊さんのお話は難しい。


難しいと解かっていても何故かしら聞きたくなる。


やはり何かしら不思議なものに魅せられているのでしょうか。


今日のお坊さんは生粋の御方でなく脱サラ坊主でありましょうとあからさまに忌憚なく話される。


真宗寺院に婿養子に入り我が子が日毎すくすくと成長する姿を見るにつけ自分は10年間ただ御念仏を唱えるだけで何ら変わらず成長もなく過ごしてきたと正直に話される。


俗人にも共通する想いを開陳為される此のお坊さんに返って親近感を覚える。


東大に挑戦するにはそれは難解なる高等数学に出逢うでしょうがそれよりも難しいのが「仏の教え」を理解することなのだとおっしゃる。


話しが嶮しくなり戒定慧の三學を究める為の厳しい修行に他ならず難解を極めるのだとお坊さんは話される。


況してや此の「仏の教え」を「親鸞の教え」に収斂することはもっともっと難しいのだと云わんと為されるがわたしには難し過ぎてよく解かりませんでした。


ただ此の親鸞は此のわたしのような落ちこぼれであっても阿弥陀様に全てをゆだね縋り付いておれば赦されると云う事らしい。


ところがその辺がまた難しくてよく解からないのです。


困ったものです。